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日常開示

2021年01月23日    土曜日     第2 回の開示 合計3024回の開示

第一月と第二月、月影のそれぞれが指すものとは

(二)楞厳経第三巻原文:仏、文殊及び諸大衆に告げたまわく。十方の如来及び大菩薩は、その自住の三摩地の中に於いて、見と見縁並びに所想の相は、虚空華の如く、本より所有無し。この見及び縁は、元は菩提の妙浄明体なり。云何ぞ中に是と非是と有らんや。文殊よ、吾今汝に問う。汝が文殊の如く、更に文殊有り、是の文殊なる者は、文殊無きか。かくの如く世尊、我は真の文殊なり。是の文殊無し。何を以っての故に。若し是の者有らば、則ち二文殊なり。然るに我が今日、文殊無きに非ず。中に実に是と非との二相無し。 

釈:仏は文殊菩薩と諸大衆に告げたまう。十方の如来と大菩薩たちが自らの住む定慧等持の三摩地において、見精と見精を生じる縁、及び心に想う相は、皆虚空華の如く、本来存在しない。この見精と縁は本来菩提の微妙清浄な覚明の体である。どうしてこの中に是と非是を分けようか。文殊よ、今汝に問う。例えば汝が文殊であるとして、更に別の文殊が存在するのか、それとも存在しないのか。文殊菩薩は答えて曰く、その通りです世尊、私は真の文殊であり、別に文殊と呼ぶべき存在はありません。なぜなら、もし別の文殊が存在すれば二文殊となるからです。しかし私は今文殊でないわけではなく、この中に実は是と非是の二相は存在しません。

原文:仏の言わく。この見妙明と諸の空塵もまた是の如し。本は妙明にして無上菩提の浄円真心なり。妄りに色空及び聞見と為す。第二月の如し。誰が是れ月なるか。又誰が非月なるか。文殊よ、ただ一月真なり。中間自ら是月非月無し。是を以って汝が今、見と塵を観る。種種の発明を名づけて妄想と為す。能く中に是と非是を出だすことあたわず。この精真の妙覚明性より、故に能く汝をして指を出だして非指を出ださしむ。 

釈:仏は説かれた。この見精明元と全ての空塵も同様である。本来は無明覚明の無上菩提、清浄円明の真心であるが、妄りに色と空、及び六識の見聞覚知に分かれる。例えば第二月の如く、どちらが月でどちらが月でないか。文殊よ、ただ一つの真月があるのみで、真月の中に本来是月と非月の区別はない。それ故に汝が今観る見精と塵相、種々の顕発と明了は全て妄想と名付けられる。この中から是と非是を生じることはできない。この精妙な真心、覚明の性によってこそ、汝は指を差し出すことも差し出さないこともできるのである。

仏はここで説かれた。七識の見精と見精が縁とする因縁、及び心に想い描く相は全て虚空の華の如く本来存在せず、全て如来蔵菩提自性の微妙清浄覚明の体である。どうしてこれに是と非の区別があろうか。文殊菩薩の例えのように、別に是文殊や非文殊と呼ぶ存在はない。仏が特に強調される要点は、見る識心と見を生じる縁、及び見られる一切の法は全て第一月の真心であり、第二月や影月もまた妙明菩提真心の自性であること。十方諸仏菩薩は皆菩提自性真心を見て、真心の現す妄相を見ない。菩提が真実である限り、全ては真実であり、真妄を区別する必要なく、全体が真如そのもの、一真法界の体である。

——生如法師の開示
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