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日常開示

2021年01月23日    土曜日     第0 回の開示 合計3023回の開示

第一月と第二月の月影はそれぞれ何を指すのでしょうか

(一)楞厳経第二巻の原文:仏は阿難に告げたまわく。しかも汝、我を見る。見精の明元。この見は、妙なる精明の心に非ずといえども、第二の月のごとし。月影に非ず。 

釈:仏は阿難にこう説かれた。あなたが私を見ているその「見精」は、色法を明らかにする本元である。この見精は微妙で精妙な本心ではないが、第二の月のようなもので、月の影ではない。 

仏がここで第二の月と言うのは見精の明元を指し、六識・七識の見を含むが、最も微妙な見精の明心ではない。つまり見精の明元の見性は七識の見性であり、如来蔵の心体ではない。見精が明らかにしているのは六識の見性を指すが、第七識の見性は隠れており明言されていない。実際には第七識の見性を含んでいる。七識の見精は体でも形でもなく、如来蔵の本体ではなく自性も形色も持たず、また如来蔵が幻化した影でもない。影とは七識が見る像を指し、地水火風空によって構成される。 

楞厳経第三巻の原文:また次に阿難。いかにして六入が本来如来蔵の妙なる真如の性であるか。阿難よ。すなわちかの目玉が凝視して疲労を生じる者。目と疲労とを兼ねて、ともに菩提なるものは、凝視して生じる疲労の相である。明暗という二種の妄塵に因り、見が中に発してこの塵象を吸収する。これを見性と名づく。この見は彼の明暗二塵を離れて、畢竟体無し。 

釈:六入の虚妄において説かれる菩提の凝視から生じる疲労相は、根と疲労の触れるところに六識の見性を生じる。この見性は塵を離れて体無く、自性も自主性も持たない。六識が六根のところで持つ見性こそ第二の月であり、如来蔵菩提の凝視から生じる疲労相であって、他処から来るのではなく、直接如来蔵菩提の中から、如来蔵の七大種子のうちの識種子のところから来る。 

如来蔵が凝視して生じる疲労相は、手で目を押さえると目が疲労して物が二重に見えるのに等しい。一は真、一は仮。仮なるものは第二の月で、真から生じ、真無くして仮無し。仮と言えば真ならず、真と言えば仮ならず。真でもなく仮でもなく、また真でもあり仮でもある。目を押さえて成る像はまた影ではない。如来蔵のこれらの労相は意根によって促される。もし意根が静まれば如来蔵は労せず、すべての労相――見性は消失して見えなくなる。

——生如法師の開示
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