(二)楞厳経第三巻原文:仏は文殊及び諸大衆に告げたまわく。十方如来及び大菩薩たちは、その自ら住する三昧のうちに、見と見の縁、並びに所想起相を、虚空華の如く本より所有無しと観ず。この見及び縁は、元来菩提の妙浄明体なり。いずくんぞ中に是と非是と有らんや。文殊よ、今汝に問う。汝が文殊なるが如し、さらに文殊有りて是の文殊たるや、あるいは文殊無きか。かくの如く世尊、我は真の文殊にして、是の文殊なるもの無し。何を以ってか、もし是ある者は、すなわち二文殊なり。然るに我が今日、文殊無きに非ず。中には実に是非二相無し。
釈:仏は文殊菩薩と諸大衆に説かれた。十方如来と大菩薩たちが自らの住する定慧等持の三昧において、見精とそれを生じる縁、および心中に想う相は、すべて虚空華の如く本来存在しない。この見精と縁は本来菩提の微妙清浄な覚明の体であり、どうしてこれに是と非是を分けようか。文殊よ、今汝に問う。例えば汝が文殊であるとして、別に文殊と呼ばれる者が存在するのか、それとも存在しないのか。文殊菩薩は答えた。その通りです、世尊。私は真の文殊であり、別に文殊と呼ばれる存在はありません。なぜなら、もしそれがあるなら二つの文殊が存在することになります。しかし今私が文殊でないわけではなく、この中には実は是と非の二相が存在しないのです。
原文:仏の言わく。この見妙明と諸の空塵もまたかくの如し。本は妙明無上菩提の浄円真心なり。妄りに色空及び聞見と為す。第二月の如し。誰か是れ月たるや、また誰か非月たるや。文殊よ、ただ一月真なり。中間自ら是月非月無し。ここをもって汝が今、見と塵を観るに、種々の顕発を名づけて妄想と為す。能く中に是と非是を出だすことあたわず。この精真の妙覚明性によりて、故に汝をして指を出だして非指を出ださしむ。
釈:仏は説かれた。この見精明元とすべての空塵も同様である。本来は無明覚明の無上菩提、清浄円明の真心であるが、虚妄によって色と空、および六識の見聞覚知に分かれた。例えば第二月の譬えのごとく、どちらが月でどちらが月でないか。文殊よ、ただ一つの真月があるのみで、真月の中には本来是月と非月の区別はない。それ故に汝が現在観察している見精と塵相、種々の顕現はすべて妄想と呼ばれ、これに是と非是を生じることはできない。この精妙な真心、覚明の性質によってこそ、汝が指を差し示すことも指さないことも可能となるのだ。
仏はここで、七識の見精と見精が縁とする因縁、および心中に想起されるすべての相は虚空華の如く本来存在せず、すべて如来蔵菩提自性の微妙清浄覚明の体であるから、どうしてこれに是と非の区別があろうかと説かれた。文殊菩薩に例えるなら、別に文殊と呼ばれる是文殊も非文殊も存在しない。仏が特に強調される要点は、見る識心と見を生じる縁、および見られる一切の法はすべて第一月の真心であり、第二月や影月もまた妙明菩提真心の自性であるということだ。十方諸仏菩薩は皆菩提自性真心を見て、真心が現す妄相を見ない。菩提が真実である限り、すべては真実であり、真妄を区別する必要なく、全体が真如であり一真法界の体である。
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