衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年01月22日    金曜日     第3 回の開示 合計3022回の開示

父子合集経講話(一〇二)

三解脱門

原文:大王知るべし。諸根は幻の如く。境界は夢の如し。一切の諸法は、皆悉く空寂なり。これを空解脱門と名づく。空もまた空の相無し、これを無相解脱門と名づく。もし相無きが即ち願求無し、これを無願解脱門と名づく。かくの如き三法は、空と共に行じ、涅槃の先道なり。かくの如く学ぶべし。

釈:大王は知るべきである。眼・耳・鼻・舌・身・意の六根は幻化された如く、様々な境界は夢の如きものである。一切の法は全て空寂であり、これが空解脱門である。諸法が空であるにもかかわらず空の相が無いことを、無相解脱門と呼ぶ。もし一切の法に相さえ無ければ、何らの願求も生じるべきでなく、願求無きことを無願解脱門と呼ぶ。このように空・無相・無願の三解脱門は空と共に存在し、涅槃への道を歩むにはこのように修学すべきである。

六根は全て幻化されたものであり、眼が見る様々な境界、耳が聞く様々な境界、六根が対する境界は、夢の中の事柄の如く真実ではない。我々がなお追求すべきものは無く、一切の諸法は皆空寂であり、空でないものは無く、寂滅でないものは無い。これが空解脱門である。一切の法が空であることを証得し、空であると知れば、心は解脱する。

空に空の相無きを無相解脱門と名づく。空の法には指し示すべき相貌が無く、空すらもまた空である。これが無相解脱門である。空には何の相も無く、空さえも無いと知れば、心は更に解脱する。もし空の相さえ無く、空すらも無ければ、何を空に執着しようか。

もし相無きが即ち願求無し。もし相さえ無ければ、我々は何を求めるべきか。何の願求も残されていない。これが無願解脱門である。願求無き心は更に解脱し、空・無相・無願の三解脱門を成就すれば、即ち聖人となる。

空・無相・無願の三法は空と共に行じ、空から離れず、また空の相も無く、三者は相互に分離せず、層を重ねて究竟の解脱に至る。我々が涅槃に入り、不生不滅を求めんとするならば、このように修行すべきである。絶えず空の心行を生じさせ、ますます空へと向かい、空すらも空として、初めて空は清浄に成就する。もし心にまだ空が残っているならば、真の空ではなく、なお空の心を滅すべきである。涅槃の道においてはこのように修学すべく、涅槃を証得するに至る。涅槃とは解脱であり、涅槃とは不生不滅であり、涅槃とは寂静無為であり、涅槃とは大自在である。

——生如法師の開示
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