(十)原文:問。若し無明を説くに、理に如かざる作意を以て因と為すとせば、何の因縁の故に、縁起の教えの中に先ず説かざるや。答。彼は唯だ不断の因なるが故に、雑染の因に非ざるが故なり。所以は如何。愚かならざる者に非ざれば、此の作意を起こす。雑染の因に依って縁起の教えを説く。無明の自性は染汚なり。理に如かざる作意の自性は染汚に非ず。故に彼は無明を染汚する能わず。然るに無明の力によって染汚せらる。又雑染の業を生ずるは、煩悩の力の所熏なり。業を発するの初因を、謂わく初めの縁起と為す。是の故に理に如かざる作意を説かず。
釈:問う。もし無明が理に随わぬ作意を因とすると説くならば、何故縁起の教えにおいて先ず理に如かざる作意を説かず、直接に無明を説くのか。答える。理に如かざる作意はただ縁起法が断じ難い因であり、善悪無記の三性にわたる雑染の因ではない。なぜなら、まさにそれら愚かなる者こそが理に如かざる作意を起こすからである。雑染の因に依って初めて縁起の教法を説く。無明の自性は染汚であるが、理に如かざる作意の自性は染汚ではない。故に理に如かざる作意は無明を染汚できず、却って無明によって染汚される。また生じた雑染業は煩悩の力によって熏習され、煩悩の力即ち無明の力である。雑染業が生じる最初の因こそが最初の縁起法である。故に最初から理に如かざる作意を説かないのである。
原文:問。何の故にか自體を説かずして、自體を縁と為すや。答。彼の自體は若し余の縁を得ずんば、自體の雑染に於て、増長する能わず、亦損減せず。是の故に説かず。問。何の因縁の故にか、福行・不動行は正しき簡擇の功徳力によって起こるに、仍お無明を以て縁と為すと説くや。答。世俗の苦因を通達せざるを縁として、非福行を起こし、勝義の苦因を通達せざるを縁として、福及び不動行を生ず。是の故に亦彼を無明を以て縁と為すと説く。問。経の中に説く所の如く、諸の業は貪瞋痴を以て縁と為す。何故此の中に唯だ痴を以て縁と為すや。答。此の中に通じて福・非福・不動の業縁を説く。貪瞋痴の縁は唯だ非福業を生ずるが故なり。
釈:問う。何故自體を自體の縁と説かないのか。答える。もし自體のみ存在し他の縁がなければ、その自體の雑染は増長もせず、また損減もしない。故に自體を自體の縁と説かないのである。
問う。如何なる因縁によって、福業の行と不動行は正しい法の簡擇という功徳力によって生じるのに、依然として無明を縁とするのか。答える。世俗における苦の原因(貪瞋痴縁)を通達しないことを縁として非福行を起こし、勝義における苦の原因(無明縁)を通達しないことを縁として福行と不動行を生じる。故にこれら三種の行は全て無明を縁として生じると説くのである。
問う。経典に説かれる如く、全ての業は貪瞋痴を縁として造作される。何故ここでは唯だ痴を縁と説くのか。答える。ここでは福行・非福行・不動行の三種の縁を包括的に説いている。貪瞋痴を縁とするのは唯だ非福業を生じる場合に限られるからである。
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