無我を証得したときには、人空であるだけでなく、業行もまた空である。たとえば私が人を殺すとき、人を殺している「私」が存在するのか? 何を「我」と言うのか? 私の識心、人を殺そうとする識心は、虚妄で空である。私の色身は虚妄で空である。それなら、私という人が存在するのか? 私という人は存在しない。私が持っている刀は実在するのか? 実在しない。那么、私が人を殺すという業行は存在するのか? それは空である。人が空であり、物が空であれば、行為の造作もまた空であり、私が刀を持って人を殺すという業行は虚妄的なものなのである。人を殺すという事を造作している者がいるのか? いない。私に殺されたその人、その人は存在するのか? 存在しない。彼の色身も同様に空で偽りのものであり、彼の識心も同様に空で虚幻的なものであり、彼の感受も空で虚幻的なものであり、苦受も空で虚幻的なものである。那么、我があり、彼があり、業行があるのか? いずれも存在しない。ただこのように用功して観行 (vipaśyanā-caryā) を続けてゆけば、証果できないはずがないどころか、明心して開悟することもでき、初地菩薩の果位まで修めることができるのである。
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