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日常開示

2021年01月03日    日曜日     第1 回の開示 合計2962回の開示

蘊処入経 上巻

(二)原文:その名色因縁によって身六入受が生ず。眼・耳・鼻・舌・身・心。これを身六入受と名づく。その六入因縁によって身六思望が生ず。眼・耳・鼻・舌・身・心。これを身六思望と名づく。その思望因縁によって身六痛が生ず。眼・耳・鼻・舌・身・心。これを身六痛と名づく。その痛因縁によって六身愛が生ず。色愛・声愛・香愛・味愛・触愛・法愛。これを六身愛と名づく。その愛因縁によって四受が生ず。一に欲受、二に見結受、三に戒願受、四に身結行受。これを四受と名づく。 

釈:名色の因縁によって色身の六入が生じ、眼入・耳入・鼻入・舌入・身入・意入を身六入受という。六入の因縁によって生じる触、眼触・耳触・鼻触・舌触・身触・意触を色身の六思望という。六触の因縁によって生じる六受、眼識受・耳識受・鼻識受・舌識受・身識受・意識受を六受という。受の因縁によって生じる六愛、色愛・声愛・香愛・味愛・触愛・法愛を六愛という。愛の因縁によって四取が生じ、欲取・見取・戒禁取・我語取を四取と名づける。 

なぜ六根が六塵に触れることを六思望というのか。この触は意根の選択によるものであり、意根にこの選択があるのは想望と欲望があるためである。そうでなければ六塵に触れることを選択せず、触がなければ後の受想行も生じない。触は極めて重要な段階であり、その目的は了別と弁別、造作と了知にある。これは意根が寂静でなく攀縁する性質を持ち、法相続を望んでいることを示す。意根にこれらの思想活動があるからこそ触を決定し、六根が六塵に触れるのであり、これこそが意根が主識として働く現れである。根塵相触して識が生じ、六識が出生すれば六塵を了別し、その後六塵の微細な法を知る。六識が六塵を知れば、意根もまた六塵の微細な処を知り、目的は次第に達成される。 

触という段階において、修行の有無、心の静寂、内省か外縁か、求めるものの有無、禅定の有無が明らかになる。触の後には多くの是非が生じ、触れなければ是非もなく心は寂静で六塵境から解脱する。逆ならば束縛を受ける。 

原文:その受因縁によって有が生ず。三有となる。一に欲界、二に色界、三に無色界。これを三有と名づく。その有因縁によって生が生ず。上の五陰・六持・六入なり。己に有るが如く生じ、聚まり住して堕ち分別根を得、已に入りて有を得る。これを生老病死と名づく。何を以てか名づくや。人々の所有する所、住する所に在り、住して壊れ過ぎ、死する時は命の六根已に閉塞す。これを死と為す。上の本を老と為し、後の要を死と為す。故に老死と名づく。 

釈:取の因縁によって生じる有は三界の有、すなわち欲界有・色界有・無色界有を三有という。有の因縁によって生じる生命体は、前述の五陰・六根・六塵・六識である。三界の有を得て生命体が生じ、生命体が集起すれば六根が具足し、三有に堕する。これを生老病死という。なぜ生老病死というのか。生老病死は全ての人にあり、五陰身の生滅変異の過程を生老病死という。出生後の生命存続を住といい、住後の壊滅を老といい、生命が滅び六根が閉塞するを死という。先に老あり、後に死あり、これを老死という。

——生如法師の開示
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