臨命終時、自分の業報は皆ことごとく現前する
しかし仏が説かれたように、死の際に命根が滅する時、つまり我々の寿命が尽きようとする時、死に臨んで未だ死なずというこの命根滅する時、一つの事柄が現出します。仏は「自分の業報がことごとく現前する」と説かれました。自分の業報とは何か。それは自らが造った業行の果報が顕現することで、あたかも夢から覚めた後、夢の中で行ったことを知るが如きものです。我々が臨終を迎える時、この生涯で行ったことの全てが、善であれ悪であれ、映画のフィルムのように速やかに心に映し出されます。そうして自らがこの世で何を為したか、善が多いか悪が多いか、どのような果報を受けるべきか、どの道に輪廻すべきかを知るのです。
思いを巡らせれば、不思議に思われることでしょう。業を造る時は誰にも知られず、業行は既に消え去ったように見えるのに、命終の時には全てが現前する。何故か。それは業行を造作する時、その行為が種子として刹那刹那に如来蔵に蔵され、行為は消えても種子は残るからです。行為は形と相があって消え去りますが、種子は形も相もなく、報いを受けるまで消滅しません。衆生は臨命終時に至って初めて、自らの生涯が善業多いか悪業多いか、どの道で報いを受けるべきか、どの業に随って報いを受けるべきかを明らかに知るのです。心では明々白々でも、最早言葉にはできません。因果の業行は実に不可思議なものです。
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