阿難よ。その通りである。心解脱した比丘は、如来が死後に存在するかどうかを問わない。もし彼がその言葉に執着するならば、彼は正しからざる者である。如来が死後に非存在かどうかを問わない。もし彼がその言葉に執着するならば、彼は正しからざる者である。如来が死後に亦有亦無であるかどうかを問わない。もし彼がその言葉に執着するならば、彼は正しからざる者である。如来が死後に非有非無であるかどうかを問わない。もし彼がその言葉に執着するならば、彼は正しからざる者である。これは如何なる因縁によるか。阿難よ。比丘はこの範囲によって、増語道と言語道、施設道と智慧界を証知し、流転輪廻から解脱する。かくの如く解脱を証知した比丘に対し、知らず見えざる者がこの見解に執着するならば、それは正しからざるものである。
釈:阿難よ、このように、心が解脱した比丘は如来に問うことはない。阿羅漢が死後に何らかの法が存在するかどうかを。もし比丘が「有」という概念に執着するならば、彼は正位に入っておらず、阿羅漢ではない。心解脱した比丘は如来に問うことはない。阿羅漢が死後に何もないかどうかを。もし比丘が阿羅漢の死後は何もないと執着するならば、彼は解脱を得ず、阿羅漢の正位に入っていない。心解脱した比丘は如来に問うことはない。阿羅漢が死後に亦有亦無であるかどうかを。もし彼が阿羅漢の死後は亦有亦無だと執着するならば、阿羅漢の正位に入らず、完全な解脱を得ていない。心解脱した比丘は如来に問うことはない。阿羅漢が死後に非有非無であるかどうかを。もし彼がなお阿羅漢の死後は非有非無だと執着するならば、阿羅漢の正位に入らず、完全に解脱していない。
既に四果の正位に入った阿羅漢は、心が解脱し、一切が解脱する。執着は滅尽し、心中に再び如何なる法にも執着しない。自らの死後が有か無か、あるいは非有非無かを問う一切の念想執着が滅尽してこそ、完全に解脱し、命終して無余涅槃に入るのである。心中に法への執着があれば、三界の有を断尽せず、無余涅槃に入ることはない。
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