衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年01月02日    土曜日     第1 回の開示 合計2958回の開示

中阿含経・大縁経

(三)原文:阿難よ。此の中にまた言う。受は実に我ならざる我なり。我の我もまた感受する者を得ざるにあらず。我は我の領納に依るべし。即ち我の我は受法なり。彼に対してかくの如く言うべし。友よ。一切の感受が完全に消滅する時、即ち一切の受無し。此の受の滅より、還って思惟有り。此において我の我有るや。世尊。実に然らず。故に阿難よ。此に依って観察するを得ず。受は実に我ならざる我なり。感受を得ざる者もまた我ならざる我なり。我は我の領納に応ず。即ち我は受法なり。 

釈:阿難よ、ここにまた受は確かに我ではなく、私もまた受でない色想行識ではない、私は私の領納に依るべきであるから、私の我と呼ばれるものは受法である。このような観念を持つ者に対しては次のように説くべきである:善き友よ、一切の感受が完全に消滅した時、一切の受は存在しなくなる。受が滅したなら、あなたはまだ領納する受が私であると考えるか。阿難は答えて言う:受は確かに私ではない。仏は言う:阿難よ、故に領納する受に依って観察しても、受が確かに私ではないことが分かる。受を離れた色想行識もまた私ではない。私は私の領納を受け入れ、領納こそが私であり、私こそが受である。 

衆生が考えるところの我には五種ある。第一は色我、色身を我とし、私が色身であり色身が私であると考える。第二は受我、受を我とし、私が受であり受が私であると考える。第三は想我、想を我とし、私が想であり想が私であると考える。第四は行我、行を我とし、私が行であり行が私であると考える。第五は識我、識を我とし、私が識であり識が私であると考える。衆生が受を我とする時、心の中に受我という思想観念が生じる。衆生が我見を断たない時、五種の我のいずれかを我とし、他のものを我所とするか、あるいは五種全てを我とする。これが我見の範疇である。 

原文:阿難よ。故に比丘は。受を我と観察せず。また観察せざるが如く。感受を得ざる者を我とせず。また観察せず。我は我の領納に応ずべし。即ち我の我は受法なり。かかる我を観ぜざる者は、彼が世間の如何なるものに対しても、全て執着せず。執着なき故に恐怖無し。恐怖無き故にただ般涅槃す。自ら生が尽き、梵行が立ち、所作が為され、更に後に有ること無きを知る。 

釈:阿難よ、故に比丘たちは受を我と考えず、色想行識を我とも考えず、また私が私の領納に依るべきだとも考えず、私が受法であるとも考えない。これらの法を我としない者は、如何なる法に対しても執着を生じず、心に恐怖がない。恐怖がない故に、ただ涅槃を証得し、自ら生死が尽きたことを証知し、清浄な梵行が確立され、この世で修めるべき解脱は既に成就され、再び後世の有法を受けることが無くなるのである。

——生如法師の開示
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