阿難よ、ここにまた言う。受は実に我の我にあらず。我の我もまた感受を得ざる者にあらず。我は我の領納に依るべし。すなわち我の我は受法なり。彼に対してはこのように言うべきである。友よ、一切の感受が完全に消滅する時、すなわち一切の受は存在せず。この受の滅によって、なお思惟があるだろうか。ここに我の我があるだろうか。世尊よ、実にそうではない。それ故に阿難よ、この依って観察することは不可能である。受は実に我の我にあらず。感受を得ざる者もまた我の我にあらず。我は我の領納に依るべし。すなわち我は受法なり。
釈:阿難よ、ここでまた受は確かに我ではなく、私も受でない色・想・行・識ではない。私は私の領納に依っているので、私の我と呼ばれるものは受法である。このような観念を持つ者に対しては次のように説くべきである:善き友よ、一切の感受が消滅した後には、一切の受は存在しない。受が滅したなら、あなたはまだ領納する受が私であると考えるだろうか。阿難は答えた:受は確かに私ではない。仏は言われた:阿難よ、それ故に領納する受に依っては、受が確かに私ではないと観察することはできない。受を離れた色・想・行・識もまた私ではない。私は私の領納を受け入れ、領納が即ち私であり、私が即ち受である。
衆生が我と考えるものに五種ある。第一は色我、色身を我と見做し、私が色身であり色身が私であると考える。第二は受我、受を我と見做し、私が受であり受が私であると考える。第三は想我、想を我と見做す。第四は行我、行を我と見做す。第五は識我、識を我と見做す。衆生が受を我とする時、心に受我という思想観念が生じる。衆生が我見を断っていない時、五種の我のいずれかを我とし、他を我所とするか、あるいは五種全てを我とする。これが我見の範疇である。
原文:阿難よ、それ故に比丘たちは受を我と観察せず、また感受を得ざる者を我と観察せず、さらに我が我の領納に依るべきこと、すなわち我の我が受法であることを観察しない。このような我を観じない者は、世間のいかなるものにも執着せず。執着なき故に恐怖なく、恐怖なき故にただ般涅槃する。自ら生が尽き、梵行が立ち、なすべきことが為され、再び後有を受けないことを知る。
釈:阿難よ、それ故に比丘たちは受を我と考えず、色・想・行・識を我と考えず、また私が私の領納に依っていると考えることなく、私が受法であると観じない。これらの法を我としない者は、いかなる法に対しても執着を生じず、心に恐怖がない。恐怖がない故に、ただ涅槃を証得し、自ら生死が尽きたことを知り、清浄な梵行が確立され、この世で修めるべき解脱が成就し、再び後世の有法を受けることがないのである。
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