(三)原文:阿难。此中又言。受实非我之我。我之我亦非不得感受者。我应依我之领纳。即我之我是受法。对彼应如是言。友。一切感受完全消灭时。即无一切受。由此受之灭。还得有思惟。于此有我之我耶。世尊。实不然。是故阿难。依此不可能观察。受实非我之我。不得感受者。亦非我之我。我应我之领纳。即我是受法。
解釈:阿難よ、ここではまた、受は確かに我ではなく、我もまた受ではない色想行識ではなく、私は私の領納に依るべきである、と説かれている。それゆえ「我の我」を受法と称するのである。このような観念を持つ者に対しては、こう言うべきである。善き友よ、一切の感受が完全に消滅したとき、一切の受はなくなる。受が滅したのだから、あなたはなお領納できる受こそが我であると考えるのか。阿難は答えて言った。受は確かに我ではありません。仏は言った。阿難よ、それゆえ、領納に依る受からは、受が確かに我に非ざると観察することはできず、受を離れた色想行識もまた我ではない。私は私の領納を受け容れる。領納はすなわち我であり、我はすなわち受である。
衆生が考える我には五種ある。第一は色我であり、色身を我とみなし、我はすなわち色身であり、色身は我であると考える。第二は受我であり、受を我とみなし、我はすなわち受であり、受は我であると考える。第三は想我であり、想を我とみなし、我はすなわち想であり、想は我であると考える。第四は行我であり、行を我とみなし、我はすなわち行であり、行は我であると考える。第五は識我であり、識を我とみなし、我はすなわち識であり、識は我であると考える。衆生が受を我とみなすとき、心の中に受我という我の思想観念が生じる。衆生に我がありながら我見を断していないときは、五種の我のいずれか一つを我とみなし、残りを我所とみなすか、あるいは五種の我のすべてを我とみなす。これが我見の範疇である。
原文:阿难。是故比丘。不观察受是我。亦不观察。不得感受者是我。又不观察。我应依我之领纳。即我之我是受法。不观如是之我者。彼于世间之任何者。皆不执着。不执着故。无有恐怖。无有恐怖故。唯独般涅槃。自知生已尽。梵行已立。所作已作。更无后有。
解釈:阿難よ、それゆえ比丘たちは、受を我とは考えず、色想行識を我とも考えず、また我が私の領納に依るものであるとも考えず、我を受法であるとも考えない。これらの法を我とみなさない者は、いかなる法に直面しても執着を生起させず、内心に恐怖がない。恐怖がないがゆえに、ただ涅槃を証るのみであり、自ら生死がすでに尽きたことを証知でき、清浄な梵行はすでに確立され、この一生で修すべき解脱はすでに修了し、もはや後世の有法を受けることはないのである。
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