仏道を修める者は常に自らを省み、どのような点で絶えず福徳を消耗しているかを観察すべきです。省みた後は速やかに改め、安易に自らの福徳を浪費せず、道業の速やかな進展を図らねばなりません。現代社会の物質的生活が発達していることは、今の時代の衆生の福徳が大きく、仏在世の衆生の福徳が小さいことを示すのでしょうか。決してそうではありません。福徳の大小は表面的な豪華さではなく、精力と福徳を道業に用い、善業に用い、絶えず智慧の宝蔵を開き、福徳を如来蔵に留めて後世の修道に役立て、世俗法に空費しないかどうかにあります。
世の人々の福徳が不足する時、往々にして浮華の世に生まれ、安易に福徳の種を現世の享楽や権勢の顕示に費やします。仏弟子が覚らずに世俗の享楽に順じ、みだりに福徳を消耗し、無益な俗事にふけり、道業を計らぬなら、それは智慧なく善根なき現れです。善根と智慧ある者は福徳を留保して修道に用い、世俗法の享楽や誇示に換えません。多くの者は世俗の名利や権勢を所有することを誇りとし、虚妄なる生滅法に執着して、富貴栄華が空華の如く瞬く間に滅び、存在するも畢竟空であることを悟りません。世人は空を体得し難く、有のみを知るが故に、後世を顧みず眼前の享楽を追う心を抱くのです。
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