(二)原文:またこう思われた。「生死はいずこより起こるのか。いかなる縁によって存在するのか」。すなわち智慧をもってその由縁を観察された。生あるがゆえに老死あり、生は老死の縁である。生は有より起こり、有は生の縁である。有は取より起こり、取は有の縁である。取は愛より起こり、愛は取の縁である。愛は受より起こり、受は愛の縁である。受は触より起こり、触は受の縁である。触は六入より起こり、六入は触の縁である。六入は名色より起こり、名色は六入の縁である。名色は識より起こり、識は名色の縁である。識は行より起こり、行は識の縁である。行は痴より起こり、痴は行の縁である。これが痴を縁として行あり、行を縁として識あり、識を縁として名色あり、名色を縁として六入あり、六入を縁として触あり、触を縁として受あり、受を縁として愛あり、愛を縁として取あり、取を縁として有あり、有を縁として生あり、生を縁として老病死・憂悲苦悩あり。この苦盛陰は生を縁として存在する。これが苦集である。菩薩は苦集陰を思惟される時、智慧が生じ、眼が生じ、覚りが生じ、明らかさが生じ、通明が生じ、慧が生じ、証が生じた。
原文:この時、菩薩はさらに自ら思惟された。「いかなるものが無ければ老死は無いのか。いかなるものが滅すれば老死は滅するのか」。すなわち智慧をもってその由縁を観察された。生が無ければ老死は無く、生が滅すれば老死は滅する。有が無ければ生は無く、有が滅すれば生は滅する。取が無ければ有は無く、取が滅すれば有は滅する。愛が無ければ取は無く、愛が滅すれば取は滅する。受が無ければ愛は無く、受が滅すれば愛は滅する。触が無ければ受は無く、触が滅すれば受は滅する。六入が無ければ触は無く、六入が滅すれば触は滅する。名色が無ければ六入は無く、名色が滅すれば六入は滅する。識が無ければ名色は無く、識が滅すれば名色は滅する。行が無ければ識は無く、行が滅すれば識は滅する。痴が無ければ行は無く、痴が滅すれば行は滅する。これが痴滅すれば行滅し、行滅すれば識滅し、識滅すれば名色滅し、名色滅すれば六入滅し、六入滅すれば触滅し、触滅すれば受滅し、受滅すれば愛滅し、愛滅すれば取滅し、取滅すれば有滅し、有滅すれば生滅し、生滅すれば老死憂悲苦悩滅す。菩薩が苦陰滅を思惟される時、智慧が生じ、眼が生じ、覚りが生じ、明らかさが生じ、通明が生じ、慧が生じ、証が生じた。
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