仏法において最も基礎的な小乗仏教は、苦・集・滅・道の四聖諦の理を修行し、五蘊の苦患を観じ、五蘊苦の集諦を明らかにし、五蘊苦の滅諦を知り、五蘊苦を滅する道諦を修めることです。次いで五蘊の苦・空・無常・無我性を逐一観行し、心の奥底で真に認証すれば、我見を断じて初果を証し、三悪道の業はこれより消滅します。仏の教理に依って智慧をもって観行する中にも、戒律の修行を離れず、禅定の修行を離れず、また福徳因縁を離れません。
観行において主に識陰の虚妄は観じ難く、特に意識心は深細で広範なため、意識心を全て見出し、逐一否定してこれらの識心作用の虚妄を認証することは容易ではありません。もし識心の体性を深く細かに了知し、識心の全ての作用処を見出した上で、その生滅虚妄性を観行すれば、我見を徹底的に断つことが可能です。意識心の境界は広範であり、一般に散乱や煩悩を起こす意識が生滅虚妄であることは知りやすいのですが、往々にして意識が定に入り深細清浄となり、妄想を起こさず念頭がない時のこの境界も生滅虚妄であることを知りません。これは意識の定境であって、不変の真心の境界ではありません。
境界たるや、すなわち法塵の境界であり、法塵境界は意識心が分別する対象です。定に入り定境に至ったことを知るこの「知」もまた意識心であり、生滅法であって我ではなく真実ではありません。定から出れば定境は消失し、念頭が再び生起するからです。このように変化生滅ある法は虚妄法であって、真実不変異の法ではありません。六祖は「那伽は常に定中に在り、不定の時無し」と説かれました。真心は永遠に定中に在り、出定も入定もなく、増減変化はありません。
仏は楞厳経において「内に守って悠閑であることすら、なお法塵分別の影事なり」と説かれました。仏が指摘されたのはまさにこの定に入る状況です。尊者は早くも衆生が真偽を識別し難いことを予見され、特に末法時代において衆生の福徳薄く邪見熾盛なるが故に真偽を見分けられぬことを慮り、楞厳経において特段に提示されて後人を戒められたのです。
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