如来蔵の無分別心による業種の収蔵と出力
貪・瞋・癡の行為は、それが造作されれば、大小を問わず、すべて業種として如来蔵に存在する。如来蔵は選択を行わない。自らが生み出した色身五蘊であるからといって、殺人行為を記録しないということはない。如来蔵には分別心がなく、平等に記録保存する。如来蔵は自らが生んだ五陰を庇うことなく、善業のみを貯え悪業を貯えないということはない。如来蔵にはそのような心行が存在せず、一切を分別しない。業行があれば、大小・善悪・無記を問わず、全て平等に収蔵するのである。
例えば料理は無記の行為であるが、料理の技術を習得すれば、それが種子として貯蔵され、来世で縁に遇えば速やかに料理ができるようになる。運転技術やその他の技術も同様であり、学んだものは全て貯蔵される。善も悪も、無記も貯える。ある者が生まれつき特定の才能を持つのは、前世で業種を蓄えたためであり、元来熟達しているからである。一方、どう学んでも習得できない者は、前世に業種を貯えていない。故に各人の特長は異なり、生まれつき音楽を理解し楽譜を編む子供もいれば、生来踊りが得意な者もいる。犬でさえ前世の技量を如来蔵に貯え、見事に踊る例もある。これを習気・習慣・業・種子と呼ぶ。前世で人を罵る癖があった者は、今生で教わることなく罵り、制御することもできない。これが業種の顕現であり、習慣の成せる業である。
凡ての貪行と瞋行は癡行に属する。善悪を弁えず、是非を識別できないことも癡である。癡があれば癡の業果が生じる。癡に対治するには、仏法の道理をもって無明癡惑を破砕しなければならない。
意根が色・声・香・味・触・法の六塵境界を縁とする時、意識には必ず三種の心行が現れる:愛楽・瞋恚・愚癡である。六根が六塵に対すれぱ、三種の感受が生起する:喜楽・瞋恚・捨受である。これらの感受は全て生滅妄執のものであり、執着すべきではない。
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