衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2020年12月23日    水曜日     第1 回の開示 合計2932回の開示

一念の無明と無始の無明とはどのような意味でしょうか

一念の無明とは、その思想観念が無明に染汚されていることを指します。なぜ無明で染汚されているのでしょうか。心に我執があるからです。五蘊十八界を我や我所と見做し、この所謂る我が苦・空・無常・無我であることを知らず、思想観念の全てが我と我所を中心に展開され、この所謂る我を固く執着するため、輪廻もまた堅固となるのです。我執ある思想観念をもって身口意の行いを指導すれば、当然ながら身口意は全て染汚業となり、これによって染汚業が生じ、必然的に輪廻転生が止むことはありません。故に一念の無明は諸々の輪廻を繋縛し、解脱を得ることができないのです。

しかしながら一念の無明もまた無始無明の一種であり、無始劫以来常に存在しており、始まりの時はありません。もし始まりの時があるならば、その時以前には一念の無明は存在せず、衆生は阿羅漢であり、無余涅槃の中にあったはずです。涅槃の中には衆生も阿羅漢も存在しません。全ての無明は無始劫以前より先天に存在しており、全て無始無明なのです。後天的な環境の影響によって、無始無明が増減するに過ぎません。

一念の無明を断尽した後も、無始無明を断尽しなければ仏陀となることはできません。無始無明とは、衆生が無始劫以来ずっと五蘊世間を真実のものと見做し、これが如来蔵が幻化した仮相であることを知らず、空であることを悟らないことです。これによって我執と法執が生じ、分段生死と変易生死が存在し、解脱できないのです。無始無明を断除するには禅を参じ、如来蔵を実証し、一切法の真如性を実証し、一歩ずつ一真法界性を証得し、全ての法の真如法性を証得すれば、完全に識を智に転じ、仏道を成就するのです。

——生如法師の開示
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