衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年12月24日    木曜日     第1 回の開示 合計2933回の開示

いつになったら無相分別を成し得るのでしょうか

初果断我見を断じて後に初めて我相・人相・衆生相・寿者相を破ることができるが、依然として衆生の五陰相への執着と分別から離れることはできない。悟りを開いた後も相を取らないことは非常に難しく、特に禅定が退失した後は、ほとんどの場合依然として相を取って分別せざるを得ない。八地以前の菩薩は完全に相を取らず分別することを根本的に成し得ない。凡夫は小さな試練にも耐えられず、いかに相に執着せず取らないよう訓練しようとも、凡夫は相の上で転じざるを得ない。凡夫は口では常に相を取らず分別しないと言いながら、一分一秒ごとに相を取って分別しており、相を取らず分別しないことなど根本的に達成できない。

禅定と智慧の証量が甚だ不足しているため、相を取らず分別しようとするのは根本的に不可能である。意識で強引に一分間抑えることはできるかもしれないが、二分間は持ちこたえられない。相を取らず分別しないことは極めて難しい。考えるのは容易で、口で言うのも簡単だが、実現するには全ての相が不実であることを証得しなければならない。証得した分だけ実現できるのであって、考えるのは無駄であり、口で言うのはさらに無益である。凡夫がもう一つの無量劫を修行したとしても、どれほどの程度まで相を取らず分別できるかは定かでない。阿羅漢でさえも完全に相を取らず分別することはできず、阿羅漢は大乗法を証得していないため、相を取って分別せざるを得ない。もし阿羅漢が相を取らず分別することができたなら、娑婆世界の苦しみに執着することなく、一心に娑婆世界の境界を避けて無余涅槃を取ることはないであろう。

——生如法師の開示
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