一念の無明とはその名の通り、思想観念が無明に染汚されている状態を指します。なぜ無明で染汚されているのでしょうか。心に我執があり、五蘊十八界を我及び我所と見做し、この所謂る我が苦・空・無常・無我であることを知らず、思想観念全てが我と我所を中心に展開され、この所謂る我に堅固に執着する故に、生死もまた堅固となるのです。我執ある思想観念で身口意の行いを指導すれば、当然身口意は全て染汚業となり、この染汚業によって必然的に生死輪転は止むことがありません。故に一念の無明は諸々の生死を繋ぎ、解脱を得ることができないのです。
しかしながら一念の無明もまた無始無明の一種であり、無始劫以来常に存在しており、始まりの時点はありません。もし始まりの時点があるならば、その時以前には一念の無明が存在せず、衆生は阿羅漢であり、余涅槃の中にあって、涅槃には衆生も阿羅漢も存在しないことになります。全ての無明は無始劫以前より先天に存在しており、全て無始無明であって、後天的環境の影響によって無始無明が増減するのです。
一念の無明を断尽した後もなお、無始無明を断尽しなければ仏陀となることはできません。無始無明とは、衆生が無始劫以来ずっと五蘊世間を実在のものと妄執し、それが如来蔵が幻化した仮相であることを知らず、空であることを悟らないことです。これによって我執と法執が生じ、分段生死と変易生死が存在し、解脱できないのです。無始無明を断除するには禅定を実践し、如来蔵を実証し、一切法の真如性を実証し、一歩ずつ一真法界性を証得し、一切の法が真如法性を証得すれば、完全に識を智に転じ、仏道を成就するのです。
24
+1