多くの人々は、自分が理解した法を現証と見做していますが、その理解は極めて表面的で、推測や憶測に基づく場合さえあります。解と解悟、悟りと証悟の境界と差異を明確にできず、大きな誤解を抱き、大妄語に至っています。仏法の答えと結論の多くは仏が示されたものであり、一部は諸大菩薩や善知識が解説されたものです。修行の過程でこれらの結論を理解することは現証ではなく、解悟にも程遠く、解悟からは遥かに隔たっています。
現証とは何でしょうか。例えば仏が「一切の法は夢幻の如し」と説かれたのは、諸仏が修証を通じて得た結論であり、仏の証量です。他者がこれを理解しても単なる理解に過ぎず、解悟にも該当しません。真に夢幻の如しを証悟すれば菩薩十回向位に至り、やがて初地に入る資格を得ます。凡夫が経典を読んで諸法夢幻の理を理解しただけで、十回向位の大菩薩になれるでしょうか。明らかに不可能です。戒定慧や菩薩の六波羅蜜も具わらず、いずれの修行も円満でない者が、初発心すら覚らないまま、どうして一大阿僧祇劫に迫る歳月を越えて十回向位の大菩薩となれましょうか。
夢幻の如しを現証するには、戒定慧と菩薩の六波羅蜜を具足した上で、浅深次第に観行と参究を重ね、各層の法を次第に証得しなければなりません。禅宗の初関、二関を経て三関に至り、ようやく夢幻観を証得するのです。これは数劫を要し、一大阿僧祇劫に迫る修行が必要です。夢幻の如しの理解にも多くの段階があり、完全徹底的な理解であっても現証とは異なります。実際の参究過程を経ず、自ら結論を得ていないからです。
幾何学の証明問題のように、最終結論は師が与えた既成品であり、自ら導き出したものではありません。自ら一歩一歩証明し、過程と段階を経て初めて師の結論を証明できます。過程が不完全で真実でなければ、師と同一の結論を得ても誤りであり、現量証得ではないのです。仏法の道理も同様で、誰もが最終結論として夢幻の如しを説けますが、正理を語るも自らの現量証ではないのです。
仏法において仏は無数の最終答えを三蔵十二部経に示されました。たとえ三蔵十二部を暗誦し、巧みに説法できても、自らの証量ではなく、単なる理解を示すに過ぎません。解悟との隔たりは大きく、証悟は論外です。仏が説かれた一法一言も、深甚な禅定の中で思惟参究し、如理如実に観行して初めて現証可能となります。現証後の智慧こそ自らの現量智慧であり、さもなくば全ての説法は自証ではなく、真実の智慧と説法が相応しません。
真に現証し成就を期すなら、五蘊を観ずる細かな条理さえ忘れ去らねばなりません。只管に観行と参究に専念し、観行中に条理を明らかにして智慧を生じさせる必要があります。多くの人の工夫が意根に至らないのは、禅定が著しく不足し、意根の思量作用を如何に制御するかを体得できないためです。定力が足りなければ、どうして体得できましょうか。禅定なき時は参究すべきでなく、意識の聪明で多くの理を解しても真実の用をなさず、口先だけの遊戯に終わります。意識による解法は不解のまま、禅定を養い因縁具足を待って参究するのが最善です。
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