眼根が色境に縁する三つの相
原文:大王よ。諸根はそれぞれに対応する境界に愛楽を執着しております。眼が色に縁する時、愛楽の念が生じます。故に色を眼の境界と説くのであります。またこの眼根が色境に縁するには、三種の相があります。愛すべき色を見れば貪想を起こし、愛すべからざる色を見れば瞋想を起こし、愛でも憎でもない色には捨想を起こすのであります。
釈:仏は説かれた。大王よ、六根はそれぞれ対応する境界に愛楽を執着しております。眼根が色塵に縁する時、心に愛楽が生じます。故に色塵を眼根の縁する境界と説くのであります。さらに眼根が色塵の境界に縁する時、三種の相貌が生じます。第一の相は、眼根が愛すべき色塵の境界に触れると、心に貪愛の想いを生じます。第二の相は、眼根が愛すべからざる色塵の境界に触れると、心に瞋恚の想いを生じます。第三の相は、眼根が愛でも憎でもない色塵の境界に触れると、心に捨想を生じ、愛着も嫌悪もない状態となるのであります。
眼根は色境を愛楽し、耳根は声境を愛楽し、鼻根は香境を愛楽し、舌根は味境を愛楽し、身根は触境を愛楽し、意根は法境を愛楽します。諸根はそれぞれ対応する境界に貪着し、眼根が対するのは色のみで声を縁せず、耳根は声のみを縁し触塵を縁せず、凡夫の六根は互いに通用できません。聖人が修行を極めた時、六根は互いに通じ合い、眼根は声を縁し香を聞き、耳根は色を縁し味に触れ、意根は色を見て思惟し、六根は相通じて互いに代替可能となります。六根は本来相通じるものですが、衆生が塵境に迷い執着するため、一つの機能が六種に分かれ、各根に境界が生じたのであります。修行によって六根の迷執を破り心が通じると、六根は互いに通じ合い用いられるようになります。その時は色身がなくとも触塵を感じ、微風や暖陽を感じ、一つの根が六根の役目を果たし、六根の機能を統合するのであります。
六根が六塵に縁する時、心の感受には三つの状態があります。一つは喜び、一つは嫌悪、もう一つは好きでも嫌いでもない捨の状態です。修行者にとって心はどの状態を保つべきでしょうか。求道者の心は平穏であるべきで、あらゆる境界に対し好きでも嫌いでもなく、中道に住して執着しない捨の状態を保つべきであります。
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