衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年12月22日    火曜日     第1開示 合計2929開示

真修実証して現量の智慧を有するにはどうすればよいか

多くの人は自分が理解した法を証実と見なしているが、理解がまだ非常に浅いことさえあり、法に対しては推測や推論、憶測によって導き出したものでさえある。解と解悟と証悟の間の境界線や差異がはっきり分からず、誤解が非常に大きく、大妄語に至ってしまう。仏法の多くの答えや結論は仏が与えてくださったものであり、また一部は諸大菩薩や善知識たちが講じたものである。自分が修習の過程でこれらの結論や答えを理解することは、証実ではなく、解悟とさえ言えず、解悟からもまだ遠く離れている。

証実とは何であろうか。例えば仏は一切法は夢のようであり幻のようであると説かれた。これは諸仏が修証を通じて得られた結論であり、仏の証量である。他の人がこれを理解しても、それは単なる理解にすぎず、解悟とも言えない。夢のようであり幻のようであることを真に証悟すれば、菩薩の十回向位に至り、まもなく初地に入る資格を得る。では、凡夫の衆生が諸法は夢のようであり幻のようであると読んで理解することによって、直接に十回向位の大菩薩になれるであろうか。明らかに不可能である。戒定慧や菩薩の六度がいずれも具足しておらず、どの面も円満に修めておらず、初めての開悟とさえ言えないのに、どうして一大阿僧祇劫に近い時間を越えて十回向位の大菩薩になれるのか。

夢のようであり幻のようであることを証実するには、戒定慧と菩薩の六度を修め足した基礎の上に、浅いところから深いところへと観行 (vipaśyanā-caryā) と参究を行い、次第に各階層の法を証得し、禅宗の初関・二関からついに三関に至って、初めて夢観を証得できる。これには多くの劫の時間を要し、一大阿僧祇劫に近い修行である。夢のようであり幻のようであることへの理解にも、多くの階層がある。たとえ完全に、究竟に、徹底的に理解したとしても、それは証実と等しくない。なぜなら、実際の参究の過程が全くなく、証明がなく、結論は自分で導き出したものではないからである。

幾何学の証明問題のように、最終の結論は先生が与えてくれたものであり、既成のものであって、自分で導き出したものではない。自分で一歩一歩証明する必要があり、過程と手順があって、初めて先生が与えた最終の結論を証明できる。もし過程が不完全であったり事実でなければ、たとえ先生と一致する結論を得たとしても、それは誤りであり、現量として証得したものではない。仏法もこの道理と同じである。誰もが最終の結論として夢のようであり幻のようであると言えるが、正しい道理を説いてはいても、それは自分の現量の証ではない。

仏法において、仏は私たちに数え切れないほどの最終の答えと結論を与えてくださった。三蔵十二部経の中にある。たとえ私たちが三蔵十二部経をすべて暗誦し、さらには口を極めて講義したとしても、それは自分の証量ではなく、単に自分の理解を表しているにすぎず、解悟とも大きな隔たりがあり、証悟は言うまでもない。仏が説かれた一つ一つの法、さらには一言一句までも、自分自身が甚深の禅定 (dhyāna) の中で思惟 (manasikāra/manana) し参究し、如実に如理に観行 (vipaśyanā-caryā) して、初めて一つ一つ証実できる可能性がある。証実した後の智慧こそが自分の現量の智慧であり、さもなければ、いかなる説法も自分の所証ではなく、真実の智慧と所説の法とが相応しない。

真に証実し、かつ成就を得ようとするなら、五蘊の観行の比較的細かな情节さえも忘れ去り、脳裏から投げ捨てなければならない。ただ観行 (vipaśyanā-caryā) と参究に専念し、細部は観行のときに自分で明らかにして、初めて智慧を生じさせることができる。多くの人は用功しても意根まで及ばない。それは禅定 (dhyāna) が著しく不足しているからであり、意根だけに思量 (manasikāra/manana) させるにはどうすればよいかを、どうしても体会できない。定力が足りなければ、どうして体会があろうか。禅定がないときは、何も参究しないのが最善である。意識が聡明であれば多くのものを解いてはみるが、真実の用はなく、口で遊ぶことはできても、実用はない。そのような意識による解法は、解かないほうがましであり、禅定の向上を残しておき、因縁が具足したときに改めて参究するのが最善である。

——生如法師の開示
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