衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年12月21日    月曜日     第1開示 合計2927開示

身体を私の我とみなすとは誰のことか

身は我に非ず、また我のものにも非ず。我はこの身体の中に寄居しており、ひとたび身体が消滅すれば、また別の身体を探して寄居せざるを得ない。ここでいう我とは誰を指すのか。誰が身体を我と我のものとみなしているのか、その我はその誰かを指す。まず、如来蔵は決して身体を我と我のものとはみなさない。神様は身体を利用して何かをすることも何かをしないことも望まず、世間法の運行においては無心である。ゆえに、この我は如来蔵を指すのではない。

では、この我は七識を指す。そのうち五識の心思は非常に粗く、我という観念や見解を持たない。意識には我という思想観念があるが、投胎して身体を探して寄居するにあたって、意識は力を及ぼすことができない。意識は身体の上で連続不断というわけではなく、身体に対して主宰権を持つこともできず、主要な責任を負うこともできない。ゆえに、この我は意根を指すのである。

住持するものがあり、利用するものがあるということは、意根が最も関心を持ち執著する事柄である。投胎して受生し色身を所有することは、意根が最も意にかけ執著する事柄である。五蘊の機能作用は、意根が最も把捉したいものである。ゆえに、意根の我見は根深く固く、最も執拗である。ひとたび意根が色身五蘊は我でも我のものでもないと認めれば、色身五蘊に対する執拗さは次第に断じ尽くされ、五蘊世間の一切の苦受から解脱するのである。 

中国語の語彙は十分に豊富ではないため、仏法と世俗の用語を分けることができず、多くの法義を正確に表現することができず、誤解が非常に多い。たとえば「真」という語は、世俗法と仏法がともに同じものを使っている。世俗法における「真」はどういう意味か、仏法における「真」はどういう意味か、人々はまったく区別がつかず、往々にして混同して区別がつかなくなる。とりわけ大乗如来蔵の法を学んだことのある人は、「真」に言及されただけで、それが如来蔵という真心や真実性のことだと思い込む。世俗法においても人々の間には「真心」という語があり、「真実」という語も使われるが、いずれも如来蔵とは何の関係もない。たとえば、甲が乙に問う、あなたは真心からそうしたいのか?あなたは真心から望んでいるのか?あなたの真実の考えは何か?このことは真実か?この物は本物か?その一つ一つの言葉は、いずれも如来蔵とは何の関係もない。ところが、如来蔵のこの部分を学ぶと、何もかもを如来蔵の頭上に据えてしまう。如来蔵にはそもそも頭などないのに、どうして据えられるというのか。

世俗法には「我」があり、仏法にも「我」がある。この二つの「我」の意味は極めて大きな差があるが、如来蔵を学び終えると混乱してしまい、どちらの我なのか区別がつかなくなる。「我」という字に出会うだけで、それが如来蔵を指すと思い込む。まさか断我見とは、如来蔵見を断じることなのか?五蘊は我であるというのは、まさか五蘊は如来蔵であるということなのか?五蘊は非我であるなら、それは必ず五蘊は非如来蔵であるということなのか?

——生如法師の開示
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