衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2020年12月19日    土曜日     第3 回の開示 合計2923回の開示

大乗十法経要略

仏は喜楽の法を求める菩薩は、善知識を恭敬供養すべきであると説かれた。法を聞くが故に、法を得んが故に、法を求めんが故に、世間の種々の苦悩と不如意事に耐え忍び、仏道を成就せんが故に、大誓願を発し、難行を行じ、難忍を忍び、仏地に至るまで休むことなく、これが菩薩たちの行持である。

仏は菩薩が如何に法に順じて行ずべきかを説かれた。菩薩は色陰・受陰・想陰・行陰・識陰の五受陰を観察する。それらは無常であり、苦であり、空であり、無我である。かくの如く観じ、かくの如く思うが、しかし羅漢たちのように五受陰を厭い離れようとはしない。羅漢たちの修行はただ苦を滅し解脱を得て三界を出離せんとするのみで、仏道を成就せんとは思わず、慈悲心薄く、衆生の生死の苦を顧みず、この世間で衆生を利楽せんとは思わない。菩薩はかくの如くせず、菩薩たちの心量は広大で慈悲心大きく、衆生を悲愍し、無量劫の修行過程において無量の衆生を広く度し、然る後に仏果を成就せんと誓願を発する。

かくの如くして菩薩は五受陰を捨て去って自らを滅度せしめることなく、生々世々に五受陰を保有し、この五陰をもって自利利他を行う。仏は菩薩が五受陰を用いるのみならず、善く五陰を利用し、善く持ち善く修すべきであると説かれた。羅漢たちは五陰を恐れ、五陰を持つことが自らに苦受をもたらすと考える。菩薩たちは五陰の実質が本来如来蔵であることを了知し、もはや五陰世間を恐れない。五陰は虚妄であり、如来蔵によって幻化されたものであるから、自ら五陰に顛倒の想いを生じさせず、五受陰に執着しなければ、苦受は生じない。

仏はさらに菩薩が如何に五受陰の苦・空・無常・無我を観察しながらも五受陰を厭離しないかを解説された。仏は譬喩をもって菩薩が智慧を持つべきであり五陰身を厭棄すべきでないことを示された。譬えば智慧ある者が毒物を販売する時、それを包んで自らは食さないようなものである。また火神を供養する者が火を供えた後、恭敬讃歎するも手で火に触れず、焼かれて苦悩を生じないようにするようなものである。菩薩もまたかくの如く、涅槃を心に期し涅槃に順ずるも、涅槃を証取せず涅槃に入らない。一旦涅槃に入れば、もはや五受陰をもって仏法を修学し広く衆生を利し仏道を成就することができず、かくして菩提を退失し大いなる損失となるからである。菩薩たちは涅槃を証取しないも、心に煩悩なく世間の煩悩に染まらず、かかる菩薩は最も敬重に値する。

仏は偈をもって諸大菩薩を讃えられた。まず菩薩は大智慧を有し、般若无生忍智と方広唯識の無生法忍智を具える。次に菩薩は無畏を有し、生死を畏れず三界の生死の長河において無量の衆生を広く度す。さらに菩薩は慧眼法眼を有し、智慧清浄である。かかる菩薩は初地以上の大菩薩であり、無生法忍慧を具え諸仏の家に入り、仏の嫡子として仏の家業を担い、衆生を度す方便善巧と勝妙の智慧を有し、その広大なる名声は声聞縁覚の二乗人を超越する。

かかる菩薩は五受陰の苦・空・無常・無我性を如実に了知し、七識妄心の生滅流転性を知り、自我の虚妄不実を知る。しかるに滅度を忍ばず、世間の衆生が生死に長く処し解脱を渇望するを見て、衆生の為に涅槃を証取せず、涅槃の無為の境界に処さない。それでは衆生に益なきが故である。慢について仏は菩薩摩訶薩が既に諸々の慢を離れ、心慈愍にして常に衆生を念じると説かれた。常に世間を行き乞食して過ごし、衆生を普く益する法教を宣説する。

世尊は四十九年にわたり法を説き、多くの秘密語を説かれたが、衆生はその義を解せず、ただ表面の意味をもって理解し受け入れるため、義に依り語に依らざることを為し難い。以下に挙げるものは世尊の秘密語であり、衆生に知られざるものである。

(一)如来が声聞人に阿耨多羅三藐三菩提を得ると授記するは、説かれた如きにあらず。かくの如く授記する所以は、声聞人にも仏性あり、成仏の性あるが故に成仏し得るからである。また如来が授記する声聞人は密行菩薩あるいは将来菩薩道に転入して修行する声聞であり、暫く声聞の解脱道を修し煩悩を断じ、大乗の善根成熟すれば菩薩の六波羅蜜万行を修し般若唯識の智慧を修め、これによって将来仏道を成就する。

(二)世尊が繰り返し阿難に背痛を患うと告げられたは、説かれた如きにあらず。仏は衆生を愍むが故に斯く説きたまうも、真実に病痛あるにあらず。弟子たちが病あるに薬を用いず、修道を障礙するが故、仏自ら率先して薬を用いて病を治す。弟子たちは仏も薬を用いるを見て、病ある時も慚愧心を生ぜず薬を用いて治療する。

(三)仏が老衰して侍者を要すと説かれたは、説かれた如きにあらず。仏は永遠に老いず永遠に衰えず、衆生の為に示現するのみ。

(四)如来が外道と論争するは、説かれた如きにあらず。仏には既に怨敵なく、故意に示現する。弟子たちが怨敵に遇う時、仏すらかくの如し、況んや我々においてをやと、違縁に遇っても深く慚じないようにする。

(五)毒刺が足を傷つけ果報を受けると示現するは、実事なし。仏は既に悪業果報なく、愚痴の衆生が業行を造作するを愍むが故に示現して果報を受ける。衆生は仏すら果報を受けるを見て、況んや我々においてをやと、業を造ることを敢えず。

(六)提婆達多が仏と怨対を為すは、説かれた如きにあらず。提婆達多は多世にわたり仏の善知識たり、示現として処々に仏に対立し、以て仏徳を顕彰する。衆生は仏の德行を見て無比の恭敬を生じ、競って三宝に帰依し仏に随って修学する。

(七)如来が乞食に空鉢を出すは、説かれた如きにあらず。仏の福徳は無量にして飲食を要せず、仮に飲食するも自ら変化し得、自ら変ぜずとも十方世界の無量衆生が仏に供養する。仏がかく示現するは、飲食を乞い得ぬ薄福の弟子が、心に仏と比べて卑下せず慚愧憂悩せしめんがため。

(八)女人が木盆を腹に置き仏を謗るは、説かれた如きにあらず。この女人は示現にして実事なし。仏は後世の弟子を慰める為に示現を為す。弟子たちが誹謗を受ける時、仏すら謗られたれば況んや我々においてをやと、心道に退かざらしむ。

(九)仏が三月間馬麦を食すは、説かれた如きにあらず。仏は五百匹の馬を度さんが為に示現す。その中の馬の頭目も願力をもって馬身に生じ、方便をもって五百匹の馬を度し、仏もまたこれを輔佐して度化する。故に衆生は善知識と善縁を結ぶべく、悪道に堕ちて報いを受ける時、善知識は悪道に赴き度化する。善知識に遇うこと何と幸いなるか。仏の福徳は仮に何を食するも最上味なるに況んや馬麦をや。仏が三月間にわたり馬麦を食するは、五百匹の馬を度するのみならず数百比丘をも度する。故に我らが法を学ぶには如来の真実義に依り、如来の語の表義に依らず、法に依り人に依らず、了義経に依り不了義経に依らず、智に依り識に依らず、総じて四依四不依あり、努めて修学すべし。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

本事経第四巻

次の記事 次の記事

陰持入経 上巻 一

ページのトップへ戻る