我見を断つには証拠が必要であり、証拠が確凿でなければなりません。意根の習気もあまり重くなく、無明も深重すぎないことが必要です。もし意根が非常に愚痴であれば、全ての証拠が摆され、証拠が確凿であっても、意根は依然として元の死理を認め、我見を断つことはできません。意識の不断なる観行思惟過程は、不断に意根の愚痴無明を扭转する過程であり、意根の無明が薄くなれば、事実を認めるようになります。しかし事実が明らかに目の前に摆かれても、无用です。
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