衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2020年12月12日    土曜日     第1 回の開示 合計2897回の開示

長阿含経 大縁方便経 第九

(九)原文:阿難よ。諸比丘はこの法において如実に正観し、漏れなき心の解脱を得たり。阿難よ。この比丘は慧解脱と名づくべし。かくの如く解脱せる心の比丘は、我ありと知り、我なしと知り、我あり我なしと知り、我あるにもあらず我なきにもあらずと知る。何となれば。阿難よ。この如く語ることこそ正語なり。この如く応ずることこそ法に相応しく。この如く定むることこそ究竟なり。この如く演説することこそ正法なり。この如く観ることこそ智観なり。この如くすることこそ衆生を度するなり。かくの如く尽く知り終わりて、漏れなき心解脱の比丘は、かかる知見をなお知らず見ず。 

釈:阿難よ、諸比丘がこれらの法において如実に正観し、漏れなき心の解脱を得た。阿難よ、正観する比丘は慧解脱の阿羅漢と称すべきである。かくの如く解脱せる心の比丘は、我の法をも知り、無我の法をも知り、我と無我の法を尽く知り、非有非無の法をも知る。何故か。阿難よ、このように語ることが正しい言葉であり、このように応えることが法に相応しく、このように定めることが最も究竟であり、このように演説することが正法を説くことであり、このように観察することが智慧的な観照であり、このようにすることが衆生を救うことだからである。煩悩の漏れ尽きて心解脱した比丘は、我と無我の法を如実に知り尽くした後、かかる知見について却って知らず見ないのである。

原文:仏、阿難に語りたまわく。彼我を計る者、その境界は既に定まれり。彼我を計る者は、あるいは少色をもって我と為すと説き、あるいは多色をもって我と為すと説き、あるいは少無色をもって我と為すと説き、あるいは多無色をもって我と為すと説く。阿難よ。彼少色を我と為すと説く者は、定めて少色を我と為す。我が見る所は是なり、余りは非なりとす。多色を我と為すと説く者は、定めて多色を我と為す。我が見る所は是なり、余りは非なりとす。少無色を我と為すと説く者は、定めて少無色を我と為す。我が見る所は是なり、余りは非なりとす。多無色を我と為すと説く者は、定めて多無色を我と為す。我が見る所は是なり、余りは非なりとす。 

釈:仏が阿難に説かれた。我を執着する者たちの境界は既に定まっている。我を執着する者たちは、あるいは少量の色を我とし、あるいは多くの色を我とし、あるいは少量の無色を我とし、あるいは多くの無色を我とする。阿難よ、少量の色を我とする者たちは、固く少量の色こそ我であると執着し、自分が見たものが正しく、他の見ないものは誤りだとする。

多くの色を我とする者たちは、固く多くの色こそ我であると執着し、自分が見たものが正しく、他の見ないものは誤りだとする。少量の無色を我とする者たちは、固く少量の無色こそ正しいと執着し、他の見ないものは誤りだとする。多くの無色を我とする者たちは、固く自分が見たものが正しく、他の見ないものは誤りだと執着する。

——生如法師の開示
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