衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月04日    木曜日     第6開示 合計876開示

参究の修行をいかにして行うか

例えば今、意根が捨受であるかどうかを参究しようとする場合、やや長い話頭や事例があります。例えば、人は非常に喜んでいる時には跳びはねて有頂天になり、怒っている時には悪口を言い、大げんかをするといったものです。まず私たちが知るべきは、これらの身行と言語行は、意根が主導して指揮し作り出したものであり、その中には身識と意識の参与があり、さらに眼識と耳識の参与もあり、いくつかの識が共同で協力してこれらの身行と言語行が現れるということです。意根が主導して作り出したのであれば、なぜ意根は二種類の異なる身行と言語行を作り出すように指揮するのでしょうか。なぜ喜んでいる時には、意根は跳びはねるように指揮して自分の喜びと興奮を示し、なぜ怒っている時には悪口を言って自分の瞋心の怒りを示すのでしょうか。意根は喜んでいる時に喜んでおらず、ただ捨受なのか、怒っている時に怒っておらず、これも捨受なのか。意根には喜びの感情や怒りの感情反応はないのか。もし意根に喜びの感情がなく、楽しさを感じないのであれば、なぜ六識を主導して跳びはねることができるのか。もし意根に不愉快な感情反応がなく、苦受がないのであれば、怒っている時にどうして六識を主導して大げんかができるのか。

これらの問題はやや長いですが、意識は仔細に思惟分析し、これらの言語の中の意味をすべてはっきりと明らかにしなければなりません。この時には言語文字と音声のイメージがあり、心の中では繰り返し言語文字の相が現れます。意識がこれらの言語の意味を表面上理解した後は、その意味を一点に凝縮し、形も相もないものとして意根に渡します。そして心の中ではこの形も相もない意味を深く懸念します。これが意根の思量の方法であり、言語文字や音声はなく、静かで、深く、連続的で、朝もこう、夕もこうと、決して移り変わることなく、ついには夢の中でも外でも放棄しないものです。これが意根による参究であり、意根を主とし、意識を補助とします。先ほど言語文字の内容を思惟理解する時には意識を主とし、意根が意識を補助しましたが、今はその逆です。これが真の参禅の方法であり、真の参究の功夫です。因縁が訪れれば必ず参を破り、答えを見つけ、心中の疑問を証解し、疑情が大きく開け、参禅して悟りを証します。

意根が意根の機能体性を参究する時にも、意根と自分という概念はなく、概念や文字と相応せず、言語や余計な言葉もなく、まっすぐに、簡潔に、きっぱりと、中心と重点に直進します。それは飲食や排泄に影響せず、歩行や坐臥に影響せず、五陰の正常な生活活動に影響しません。ただ雑念がなく、余計な考えがなく、比較的集中しており、心を乱用しません。

これは意根による自己参究であり、如来蔵を参究するのも同様で、どのような法義を参究するのも同じです。どれほど深い法義であっても、このように功夫を積み、このように努力しなければなりません。意識と意根が互いに緊密に協力し、如来蔵は目に見えない助手として、名もなき支援者として、参究に必要なすべての物資と糧食を供給します。

——生如法師の開示
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