衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月04日    木曜日     第5開示 合計875開示

覚観と尋伺

初禅以前の心には覚と観があり、初禅と二禅の間の心には覚はあるが観はなく、二禅以上の心には覚も観もない。観は覚に比べて、心の働きが粗く、能動的で、動きがより顕著である。一方、覚は受動的な要素が多く、二禅に入る直前には、心はもはや能動的に観ずることをやめ、受動的な覚知となり、その後は覚知することもできなくなり、二禅に入る。したがって、禅定においては必ず観が先に滅し、覚が後に滅する。心を静めて観じてみれば、わかる。この観には思惟があり、比較的粗い。覚とは知ることである。識心が存在する限り知はあるが、必ずしも観ずるとは限らない。心が疲れた時、識心が微弱になると、もはや観ずることはできなくなるが、覚知はあり得る。

尋(ヴィターカ)は、心の働きが非常に粗く、動きが顕著で、識心が能動的に探し求め、探究し発見しようとする。伺(ヴィチャーラ)は、心の働きが微細で、動きが軽微であり、発見しにくく、受動的に待つ意味があり、もはや能動的に出撃することはない。観は観察に類似し、心の動きが顕著で、自ら容易に観察できる。覚は心があれば覚じることができ、覚知は非常に微細であり得る。多くの場合、自らが覚知していることに気づかない。観は尋に類似し、覚は伺に類似する。初禅以後の覚は、伺よりもさらに微細で、さらに受動的である。

定力が十分にある時、深く禅定に入り、自ら一切の法を観察思惟し、一切の法を検証する。既定の習慣的な説き方に依拠せず、既成の答えは必ずしも正しくない。仏が親しく説かれたもの以外は、たとえ正しくとも自らの現量観察を行ってこそ、智慧を増長できる。仏法がよく学べるかどうかは、各人の心が細密であるかどうかに関わり、また世俗法における語学力にも関わる。理論中の字句語義を正確かつ深く把握してこそ、正しく理にかなった思惟ができ、文字の意味を誤解することはない。

入定した時、あるいは深い定を経験したことがあれば、どの状態が観であり、どの状態が覚であるかを体得できる。字句の内包する意味の把握は、我々の文字に対する教養に属し、この基礎は必ずよく訓練しなければならない。今後、文章や仏典を読む際に、文字言語の内包する意味を深く理解でき、仏経の原意を正しく理解し、仏意を誤解することはなくなる。多くの人が仏経を読んでも真に理解し悟ることができず、誤解する場合が非常に多い。往々にして自らの誤解した意味をもって他人を判断し、他人が誤解していると言いながら、自らが誤解しているかどうかを省みない。

——生如法師の開示
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涅槃の境地は如来蔵の幻化と示現によるものである

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参究の修行をいかにして行うか

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