初禅以前の心には覚と観があり、初禅と二禅の間の心には覚はあるが観はなく、二禅以上の心には覚も観もない。観は覚に比べ、心の動きが粗く、能動的で、動きがより顕著である。一方、覚は受動的要素が多く、二禅に入る直前には、心はもはや能動的に観ずることをやめ、受動的に覚知するようになり、やがて覚知もできなくなって二禅に入る。したがって禅定においては必ず観が先に滅び、覚が後に滅ぶ。心を静めて観ずれば、自ずとわかる。この観には思惟が伴い、比較的粗いものである。覚とは知ること、識心が存在すれば必ず知はあるが、必ずしも観ずることはできない。心が疲れた時、識心が微弱になると、もはや観ずることはできなくなるが、覚知は可能である。
尋とは、心の動きが極めて粗く、動きが顕著で、識心が能動的に探求し発見しようとする。伺とは、心の動きが極めて細かく、動きが微細で発見しがたく、受動的に待つ意味があり、もはや能動的に出撃しない。観とは観察に似て、心の動きが顕著で自ら容易に観察できる。覚とは心あればこそ覚ずるもので、覚知は極めて微細であり、多くの場合自らが覚知していることに気づかない。観は尋に似、覚は伺に似るが、初禅以降の覚は伺よりもさらに微細で受動的である。
定力が十分であれば、深く禅定に入り、自ら一切の法を観察思惟し検証すべきである。既定の習慣的な説き方に依拠せず、既成の答えが必ずしも正しくないことを知るべきで、仏が直説されたもの以外は、たとえ正しくとも自らの現量観察を行ってこそ智慧が増長する。仏法をよく学べるかは、各人の心の細やかさに関わり、また世俗法における言語能力にも関わる。理論中の字句の意味を正確かつ深く把握してこそ、正しく理に適った思惟ができ、文字の意味を誤解することがない。
入定時、あるいは甚深な定を得た経験があれば、どの状態が観でありどの状態が覚であるかを体得できる。字句の内包する意味を把握することは我々の文章素養に属し、この基礎は必ずよく訓練すべきである。後に文章や仏経を読む際、文字言語の内包する意味を深く理解し、仏経の原意を正しく把握でき、仏意を誤解することがなくなる。多くの人が仏経を真に理解悟入できず、誤解する場合が非常に多く、往々にして自らの誤解した意味をもって他人を判断し、他人が誤解していると言いながら、自らが誤解していないか反省しない。
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