衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2020年11月22日    日曜日     第3 回の開示 合計2819回の開示

意識の知を以て知とするこそが無明なり

各識の証自証分とはどのような意味でしょうか。各識が自証する相分について、その内容を知ることができるでしょうか。例えば第八識には見分があり、これが能見性です。第八識の相分は第八識が見る相、例えば種子を指します。第八識の自証分とは、第八識自らが相分の種子を見て、これを了別したことを知る働きです。第八識の証自証分とは、第八識が自らの自証分を証明し証得したことを知り、自らが相分の種子を了別したことを知り、相分の種子に対する了別を完了したことを知る働きです。第八識自らが何を行ったか、それは第八識自身が明らかに認識しています。

しかし我々は第八識が相分の種子を了別したことを認識できるでしょうか。我々には分かりません。第八識は意識の知覚に取って代わるものではなく、意識が知らないからといって他の識も知らないとは限りません。意識の不知をもって他の識の知を否定することはできません。第八識を甲とし、意識を乙とすれば、甲が知る法を乙は必ずしも知らず、乙が知らないからといって甲も知らないことにはなりません。甲の証自証分は乙の証自証分を代表せず、乙が甲の証得した相分を認識できないからといって、甲が証得していないとか知らないということにはなりません。

衆生の知見は、その多くが意識の知見を基準としています。意識が知らないことは「私には分からない」と言い、ある事柄が発生していない、存在しないと主張します。実際には第七識は事柄の発生を知り、事柄を認識しています。しかし第七識には言語文字を扱う機能がなく、表現することができず、意識に知らせる手段がありません。そこで意識は自ら知らないことは存在せず、他の識も同様に知らないと判断します。このような断定は極めて独断的で、道理にかなっていません。

凡夫衆生の意識はどこまで独断的でしょうか。意識自らが意根を証得できず、意根を観察できないため、意根の自証分や証自証分を認めようとしません。意根は自己に対する内省性を備え、自らの了別を反観する能力がありますが、意識はこれを知らず、観察できないため、意根には反観力がなく証自証分もなく、ある種の自証分も存在しないと主張します。意識がこのように考える時、まさに意識自身の愚痴無明と暗鈍さ、あまりに浅薄で誤解の多い知見を露呈しているのです。仏は「慎んで汝の意を信ずることなかれ、慎んで汝の意を信ずることなかれ、汝の意は信ずべからず」と説かれました。なぜなら無明が深重だからです。

——生如法師の開示
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