衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2020年11月21日    土曜日     第1 回の開示 合計2813回の開示

雑阿含経(三五二)その一

(一)原文:如是我聞。一時、仏は舎衛国の祇樹給孤独園に住したまえり。その時、世尊は諸比丘に告げられた。もし諸の沙門・婆羅門が法を如実に知らず、法の集起と滅尽を如実に知らず、法滅の道跡を如実に知らなければ、彼らは沙門の中の沙門たるに足らず、婆羅門の中の婆羅門たるに足りない。彼らは真実の沙門の意義にも、真実の婆羅門の意義にも達しておらず、法を見ずして自ら証することがなく、『わが生は尽き、梵行は立ち、なすべきことをなし終え、再び後の有を受けることなきを自ら知る』という境地に至らない。

釈:世尊は諸比丘に述べられた。もし沙門や婆羅門が法を真実のままに理解せず、法の生起と消滅を真実のままに知らず、法が滅する道筋を真実のままに知らないならば、彼らは沙門ではなく沙門の数にも入れず、婆羅門ではなく婆羅門の数にも入らない。彼らは真実の沙門でも真実の婆羅門でもなく、法を見ず、自ら身をもって証することがなく、「わが生は尽き、梵行は成じ、なすべきことはなし終え、再び後の有を受けないことを自ら知る」という境地に達していない。

原文:いかなるが法を如実に知らざるや。いかなるが法の集起を如実に知らざるや。いかなるが法の滅尽を如実に知らざるや。いかなるが法滅の道跡を如実に知らざるや。すなわち老死の法を如実に知らず、老死の集起と滅尽を如実に知らず、老死滅尽の道跡を如実に知らざるなり。かくのごとく生・有・取・愛・受・触・六入処を如実に知らず、六入処の集起を如実に知らず、六入処の滅尽を如実に知らず、六入処滅尽の道跡を如実に知らざるなり。かくのごとく諸法を如実に知らず、法の集起と滅尽を如実に知らず、法滅の道跡を如実に知らざるなり。

釈:いかなる法を真実のままに知らないのか。いかなる法の生起を真実のままに知らないのか。いかなる法の滅を真実のままに知らないのか。いかなる法滅の修道路筋を真実のままに知らないのか。すなわち老死の法を真実のままに知らず、老死の生起と消滅を真実のままに知らず、老死滅尽の修道路筋を真実のままに知らないことである。同様に生・有・取・愛・受・触・六入処の法を真実のままに知らず、それらの生起を真実のままに知らず、それらの消滅を真実のままに知らず、それらが滅する修道路筋を真実のままに知らない。このように諸法を真実のままに知らず、諸法の生起を真実のままに知らず、諸法の滅を真実のままに知らず、諸法滅の修道路筋を真実のままに知らないのである。

——生如法師の開示
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