原文:如是我聞。一時、仏は那梨聚落の深林の中、待賓舎に住したまえり。その時、尊者サンタカチャンニャン([跳-兆+散]陀迦旃延)仏の御所に詣で、仏足を頂礼し、退いて一面に住し、仏に白して言う。「世尊よ、世尊の説かれる正見とは何でしょうか。如何なるものを世尊は正見と施設されるのですか」仏はサンタカチャンニャンに告げたまわく「世間には二種の依り所あり。有と無なり。取によって触れられるものである。取によって触れられるが故に、或いは有に依り、或いは無に依る。もしこの取が無ければ、心は境に繋着して取らず、住して我を計らず。苦の生ずれば生じ、苦の滅すれば滅す。彼において疑わず惑わず、他によることなく自ら知る。これを正見と名づく。これを如来の施設したまう正見と名づく」
釈:サンタカチャンニャン尊者が仏に問う「世尊、あなたの説かれる正見とは何ですか。なぜこのような正見を施設されるのですか」仏は答えられる「世間には有と無という二つの依り所がある。取着によって触れられ、二つの依り所に執着する故に、世間の人々の見解は有に依って世間を有と見做し、或いは無に依って世間を無と見做す。もし有無の二つの依り所に執着しなければ、心は中道に住し、境に接しても有にも無にも執着せず、我に住することなく、我が苦の生滅に従って生滅することを計らわない。この中道の理に対し疑いも惑いもなく、他人の教えによるのでなく自ら悟ることを、正見と称し、如来の施設された正見である」
原文:所以は何ん。世間の集を如実に正知見すれば、世間に無なるものは存在せず。世間の滅を如実に正知見すれば、世間に有るものは無きに帰す。これを二辺を離れて中道を説くとなす。所謂く此有るが故に彼有り、此起こるが故に彼起こる。縁って無明より行を生じ、乃至純大苦聚を集む。無明滅すれば行滅し、乃至純大苦聚滅す。仏この経を説き終えたまう。尊者サンタカチャンニャン、仏の説かれたことを聞き、諸漏を起こさず、心解脱を得て阿羅漢となれり。
釈:何故これを正見とするか。世間の集起を如実に正しく知見すれば、世間が本来無であるならば集起は存在しない。世間の滅を如実に正しく知見すれば、世間が本来有であるならば滅は存在しない。これが有無の二辺を離れた中道の説である。即ち「此有る故に彼有り、此起こる故に彼起こる」とは、無明を縁として行が生じ、行を縁として識が生じ、識を縁として名色が生じ、名色を縁として六入が生じ、六入を縁として触が生じ、触を縁として受が生じ、受を縁として愛が生じ、愛を縁として取が生じ、取を縁として有が生じ、有を縁として生が生じ、生を縁として老死憂悲苦悩の純大苦聚が集起する。
また無明が滅すれば行は滅し、行が滅すれば識は滅し、識が滅すれば名色は滅し、名色が滅すれば六入は滅し、六入が滅すれば触は滅し、触が滅すれば受は滅し、受が滅すれば愛は滅し、愛が滅すれば取は滅し、取が滅すれば有は滅し、有が滅すれば生は滅し、生が滅すれば老死憂悲苦悩の純大苦聚は滅する。仏がこの経を説き終えられると、尊者サンタカチャンニャンは仏の教えを聞き、一切の煩悩を起こすことなく心の解脱を得て阿羅漢となられた。
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