生老病死憂悲苦悩を滅除しようとするならば、十二因縁法においてどの環節が最も重要でしょうか。あるいは十二因縁法のうちどの環節が最も直接的に生老病死憂悲苦悩を引き起こすのでしょうか。ある者は「取」であると言い、ある者は「貪愛」と言い、ある者は「受」と言い、ある者は「触」と言い、ある者は「六入」と言い、ある者は「名色」と言い、ある者は「六識」と言い、ある者は「行」と言い、ある者は「無明」と言います。
まず「取」を滅すれば、もはや執着せず、後世の「有」は現れず、生死はここに消滅します。故に「取」は比較的重要な環節です。「取」がなければ、後世に生まれる因縁条件は存在せず、「取」を滅するには如何にすべきか。もし人が深く貪愛するならば、「取」を滅することは可能でしょうか。全く不可能です。故に貪愛の滅除も重要です。貪愛の滅除は「我見」を断じた後に初禅定を修得して初めて可能となり、貪愛を滅する者は三果や四果の聖者となります。
しかしもし人が絶えず「受」を続けるならば、貪愛は滅せず生じ続けるでしょうか。全く不可能です。故に「受」を滅することも重要です。「受」を如何に滅するか。「受」は触境界によって生じるものであり、触を減らし滅するのみが「受」を減らし滅する道です。故に「触」を滅することも重要です。「触」を如何に滅するか。内六入があれば必ず触が生じ、触しなければ苦悩し、触せざるを得ません。故に内六入を滅することが重要です。
内六入を如何に滅するか。内六入は名色より生じ、名色あれば必ず内六入あり。故に名色を滅することが重要です。名色を如何に滅するか。名色は三界の業種より生じ、業種は六識が身口意行を造作して残すものです。もし六識が身口意行を造作しなければ、三界の種子は存在せず、後世の名色五陰も生じず、生死は終息します。故に六識及びその身口意行を滅除することが重要です。六識を如何に滅するか。六識の出生は意根によって決定され、意根が身口意行を造作しようとすれば、六識は必ず出生して意根の心行に従い造作します。故に意根の心行を滅除することが重要です。意根の心行を如何に滅するか。意根が三界世間法に心を留め、三界世間を行じるのは意根の無明によるものです。意根に無明ある限り、必ず心行が生じ、業行を造作しようとします。故に意根の無明を滅することが最も根本的です。無明が滅すれば、三界五陰世間は必ず滅尽し、塵一つ現れません。如何にして無明を滅尽するか。
修行はまず意根の行を調伏し、六識の身口意行を調伏し、六入の触を調伏し、受覚を調伏し、貪欲を調伏し、取着心を調伏した後に初めて断除し、滅尽に至ります。調伏の過程こそが三十七道品と八正道を修め、戒定慧を実践する過程です。調伏後、戒律が厳格となり、禅定が向上し、智慧が増進し、身心が軽安となれば、やがて初めての脱胎換骨を経て法眼清浊となり、初果を証得して三昧に入ります。二度目の脱胎換骨は初禅定修得後に訪れ、煩悩が次第に脱落断除され、我執が断尽する時、三界世間の苦より解脱します。
一つの環節を調伏すれば、他の環節も次第に調伏されます。一つの環節を断除すれば、他の環節も次第に断除されます。無明の断除が最も根本的であり、無明を断たねば他のものも断尽できず、再び根を張り芽を出します。禅定を得れば触は減少し、受も減少し、愛も減少し、取も減少し、これらの環節は調伏されます。しかし無明を断たねば、これらの環節は再び増大します。出離心が生じないのは苦を認識せぬためであり、苦を認識せぬのは無明が深重であるためです。
これらの生死煩悩と生死無明の要は全て意根にあります。意根を調伏し、意根の無明を断除することが最も重要です。意根に無明あれば攀縁し、その後決択し、六識が出生し、身口意行を造作し、業種を残し、再び名色に投胎して新たな生死が現れます。この循環は何時終わるのでしょうか。我見を断じて初果を証するのは、初めて意根の無明を断ずることであり、ただ一部分を断ずるに過ぎません。更に修行を続け、更に一部分を断除し、智慧と三昧が増進して二果を証し、三果を証し、三界の無明煩悩を断尽して四果を証します。故に初果は必ず意根の我見を断じますが、それは少分を断ずるに留まります。
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