衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年11月12日    木曜日     第3 回の開示 合計2781回の開示

雑阿含経(二九七)その二

(二)原文:もしまた問うて言う。いずれが行か。行は誰に属するか。彼は答えて言う。行は即ち我なり。行は我が所有なり。彼がこの如く言う『命は即ち身なり』あるいは『命は身と異なり』と。彼が命は即ち身なりと見る者は、梵行者あることなし。あるいは命は身と異なると言う者は、梵行者またあることなし。この二辺を離れ、正しく中道に向かう。賢聖世に出ず。実の如くに顛倒せず。正見の知る所。所謂、無明を縁として行あり。

釈:もし再び「いずれが行か。行は誰に属するか」と問う者がいれば、「行は我なり。行は我が所有なり」と答えるべきである。もし「命は即ち色身なり」あるいは「命が異なれば色身も異なる」と言う者がいれば、「命は即ち色身なり」と言う者は梵行を修める者にはもはや命がなく、「命が異なれば色身も異なる」と言う者は梵行を修める者にはもはや色身がない。比丘たちは命と色身の有無に関する見解を離れ、いずれの辺にも執着せず、正しく中道涅槃に向かう。賢聖が世に出た後に初めて、実相に背かず顛倒しない見地を得、正知正見を具足し、無明を縁として行が生じ、行を縁として六識が生じ、ついに生を縁として老死憂悲苦悩、純大苦聚が生ずることを知る。

原文:諸比丘よ。もし無明が欲を離れて明が生ずれば、いずれの者が老死か。老死は誰に属するかというに、老死は断じ、その根本を断つことを知る。多羅樹の頭を截つが如く、未来世において生じざる法となる。もし比丘が無明を離れ欲を断って明を生ぜば、いずれの者が生か。生は誰に属するか。ついにいずれが行か。行は誰に属するかというに、行は断じ、その根本を断つことを知る。多羅樹の頭を截つが如く、未来世において生じざる法となる。もし比丘が無明を離れ欲を断って明を生ぜば、彼の無明滅すれば行も滅す。ついに純大苦聚も滅す。これを大空法経と名づく 仏この経を説き終えられし時、諸比丘仏の説かれたことを聞き、歓喜して奉行せり。

釈:諸比丘たちよ、もし貪欲を離れ無明を滅尽し明が生じたならば、「いずれの者が老死か。老死は誰に属するか」という問いに対し、老死は断じ尽くされ、もはや老死は誰にも属さないことを知る。このように生死は根本から断じ尽くされ、多羅樹の頭を截つが如く、未来世に再び生じることがない。もし比丘が貪欲を離れ無明を滅尽して明を生じたならば、「いずれの者が生か。生は誰に属するか」、ついに「いずれが行か。行は誰に属するか」という問いに対し、生から行に至るまで全てが断じ尽くされ、生死が根本から断たれることを知る。多羅樹の頭を截つが如く、未来世に再び生じることがない。

もし比丘たちが欲を離れ無明を断尽して明を生じたならば、無明が滅すれば行も滅し、行が滅すれば六識も滅し、六識が滅すれば名色も滅し、名色が滅すれば六入も滅し、六入が滅すれば触も滅し、触が滅すれば受も滅し、受が滅すれば愛も滅し、愛が滅すれば取も滅し、取が滅すれば有も滅し、有が滅すれば生も滅し、生が滅すれば老死憂悲苦悩も滅し、ついに純大苦聚も滅する。これを大空法経と称する。

——生如法師の開示
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