衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年10月23日    金曜日     第2 回の開示 合計2732回の開示

雑阿含経(二九一)の四

(四)原文:例えば道端に涼やかな池がある。水は香りと味を備えている。ある者が毒をその中に入れた。春の候、道行く人々は風熱に喉を渇かせられ、競って水を飲もうとする。ある者が言う『士夫よ、これは涼やかな池で色香も味も備わっているが、中に毒がある。飲んではならない。もし飲めば、死ぬか死に近き苦しみを受けるだろう』と。しかし喉の渇いた者は信じずに飲む。美味を味わうも、瞬く間に死ぬか死に近き苦しみに遭う。このように沙門や婆羅門は、世間に愛すべき端正な色相を見て、常なる見・恒なる見・安穏なる見・無病なる見・我及び我所の見を作し、ついに生老病死憂悲悩苦より解脱を得ることができない。

釈:仏は譬えて言われた:道端に涼やかな池があり、水は香りと味を備えている。もし毒を池水に入れれば、春の暖かい季節に道行く人々は暑さで喉を渇かせ、この水を飲もうとする。飲もうとする時、傍らに人が告げる『この涼やかな池水は色香も味も備わっているが、中に毒がある。飲んではならない。飲めば死ぬか、死なずとも重い病に罹る』と。しかし喉の渇いた者は渇きに耐えかねて信じずに飲む。飲む時は涼やかで美味しいが、飲み終わると毒が発現し、直ちに死ぬか苦しんで死に瀕する。これと同じく、沙門婆羅門は世の愛すべき端正な色相を見て、これを恒常不滅のもの、安穏不変のもの、過患なきもの、我及び我が所有と見做す。このような知見によって生老病死憂悲悩苦より解脱できないのである。

原文:もし諸の沙門婆羅門が、世間に愛すべき端正な色相に対し、病の如く、癰の如く、刺の如く、殺の如く観察し、無常・苦・空・非我と知れば、その愛は離れる。愛が離れる故に執着が離れ、執着が離れる故に苦が離れ、苦が離れる故に生老病死憂悲悩苦が離れる。例えば道端の涼やかな池水が香りと味を備え、ある者が毒を入れた時、春の候に道行く人々が喉の渇きに迫られて飲もうとする。ある者が『この水には毒がある。飲んではならない。飲めば死ぬか死に近き苦しみを受ける』と言う。彼らは『この水は毒を含む。飲めば死ぬか死に近き苦しみがある。我は渇きを忍び、乾いた炒り飯を食べ、水を飲まぬようにしよう』と考える。

釈:もし沙門・婆羅門が世の愛すべき端正な色相を見て、これらの色相を病患の如きもの、癰の如きもの、芒刺の如きもの、殺戮の如きものと観じ、全てが無常・苦・空・非我であると知れば、貪愛は離れる。貪愛が離れる故に執着が離れ、執着が離れる故に苦が離れ、苦が離れる故に生老病死憂悲悩苦が離れる。譬えるなら道端の涼やかな池水に毒が入れられた時、喉の渇いた行者たちは他者から『この水は有毒』と告げられ、飲むことを止める。飲む者は『毒水は飲めない。飲めば死ぬ』と無明を断ち、渇きを暫し耐えて乾いた炒り米を食べ、水を飲まずに去る。こうして毒水を飲まねば中毒死せずに済む。

我々は今後、心に銘記すべきである:再び毒水を飲むな。一念の貪愛が生じたら自らに言い聞かせよ『我は再び貪愛すべからず、毒水を飲むべからず』と。何かを好む念が起これば『好んではならない、好むことは毒水を飲むに等しい』と。未練が生じれば『未練を抱くべからず、未練は毒水を飲むことなり』と。徐々に貪愛は薄れ、やがて滅し、苦は消える。このように一点一点自らを戒め、遂に我々は解脱の道へと至るのである。

——生如法師の開示
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