(三)原文:もし諸の沙門・婆羅門が、世間の念ずる所の、諦正なる色について、常想・恒想・安穏想・無病想・我想・我所想として見るならば、則ちこの色に対する愛が増長する。愛が増長すれば、取が増長し、取が増長すれば、苦が増長する。苦が増長すれば、生老病死憂悲悩苦から解脱せず、我は彼が苦から解脱せぬと説く。
釈:仏は説かれた。もし沙門・婆羅門が世間の人が憶念する精細で純正なる色・声・香・味・触・法について、常・恒・安穏・無病・我・我所の想いをなし、これらの知見を生じたならば、色受想行識への貪愛が増長すると。貪愛が増長すれば取が増長し、取が増長すれば苦が増長する。苦が増長すれば、生老病死憂悲悩苦から解脱できず、我は彼らが苦から解脱せぬと説く。
恒とは永遠に変わらず滅びないこと、安穏とは固定して永遠に変わらぬこと、永遠に我のものであること、無病とは過患なき意味である。衆生はこの六根・六塵・六識を過患あるものとせず、我とし、我の所有とする故に、追求し貪愛し執着する。かくして生死輪転は断たれない。もしこれらの法が過患あり、生老病死憂悲苦恼を生じさせることを知れば、再びこれらの法を追求することはない。
これらの想いがあれば色愛は増長し、ますます貪り、貪愛が増すほど生死は絶えず、苦恼は多くなる。この貪愛が増長すれば、執取も増長し、三界の有も必然的に増長する。三界の有が増長すれば、生命は絶えず、苦は増長する。貪愛が重ければ苦も多く、増長するほど生老病死憂悲苦恼から解脱できぬ。衆生は皆楽を求めるが、結果は苦を受ける。衆生は常に苦因を造作している故である。貪愛あれば苦あり。阿羅漢には貪愛なく、執取もない故、当然ながら生老病死の苦は再びない。
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