問:もし見道が未到地定、初禅、二禅、三禅、四禅を必要とするならば、禅宗の公案参究による悟りと見道は仏理に適っているのでしょうか?
答:公案参究は未到地定と初禅定がなければ成り立ちません。ただ心中で公案を念じ続けるだけでは、実は話の末尾を追っているのであって、公案の根本(話頭)を見出すことはできず、どうして悟りを開き道を見ることができるでしょうか。ただし初禅以前の状態でなければ禅を参究し、悟道することはできません。二禅以上では五識が滅し意識が微弱となるため、禅を参究できません。ただし意根が公案によって深く深く薫習されていれば、単独で参究できるかもしれません。かつて禅宗の祖師方が悟道したのは全て初禅以前の定の中においてでした。彼らは座禅で静定を修めつつ、日常活動の中でも禅を参究し、二種類の定が相乗効果を発揮したため、悟道が速やかに成就したのです。どちらか一方だけでは、悟道は非常に困難です。
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