悟りと転依の成功について、真に徹底的に如来蔵の清浄無為の性質に転依した成功者は仏世尊であり、その心はすでに完全に清浄で余すところなく、無明は尽き、染汚は尽きている。仏世尊は三大阿僧祇劫の修行を経て、明心して悟りを開いた後、絶えず自他の五蘊身心の造作において如来蔵が世間の有為法を造作する際の清浄性と無我性を観察し、六七の識は徐々に感化され震撼され、少しずつそれに従って学び、少しずつその染汚性を清浄性に転じ、ますます無我となっていった。まず我執を断ち、その後また法執を断ち、内心はますます空しく、ますます無為となり、ますます如来蔵に似てきて、転依の程度はますます深まり、ついに完全に無我となり、無明を断じ尽くして、初めて転依が究竟に成功したのである。
その他の菩薩は皆、真に悟りを開き明心してから、六七の識が初めて少しずつ如来蔵の清浄な体性に転依し、一部分転依するごとに染汚性が一部分消え、清浄性が一部分増し、菩薩の智慧が一部分増長し、果位が一階位躍進し、仏に成るまで至るのである。
もし真に悟りを開かず、解悟や仮の悟りに留まり、ただ一つの密意を知り、一つの結果を知るだけで、中間の実修の過程がなければ、それは如来蔵への転依の問題に関わることはできず、如来蔵への転依とは無関係である。なぜなら如来蔵を証得しておらず、眼前で如来蔵の運作を観察することができず、如来蔵が如何に清浄であるかを知らないため、六七の識は手本を見出せず、従ってそれに従って学ぶことができず、その心は清浄になることはないからである。
模範の力は無限である。いわゆる「朱に交われば赤くなる」とは、墨に近づけば黒くなるように、如来蔵に近づけば必ず如来蔵のように無我で清浄となり、有為の中にあってその心は無為となるのである。真に如来蔵を証得していなければ、五蘊に近く、煩悩に近く、その心は清浄になることができず、無為に変わることもできず、無為性を持たない。
なぜ現代の仏教では退転の説が流行しているのか?それは多くの人々が真の修行と実証がなく、中間の参究の過程がなく、ましてや観行して我見を断つ過程がないため、皆実修実証がないからである。さらに大部分の人は禅定が不足し、定力が悪く、観行思惟もできず、参究もできず、悟ったことが真ではなく、ただ結果だけを知っている。聞きかじったものであったり、推測で出したものであったりし、どれも真の悟りではないため、退転の説があるのである。実は全く如来蔵のところまで修行しておらず、退転の問題に触れることもできず、如来蔵への転依の問題に触れることもできない。もしどうしても転依が成功して初めて悟りであると言うならば、転依が成功する前はせいぜい解悟であり、証悟ではない。
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