衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2020年10月18日    日曜日     第3 回の開示 合計2717回の開示

仏法修行が急いではいけない理由

菩薩道の修行の道は長遠なるものであり、一時の速さや遅さに拘る必要はありません。目標の達成は三つの無量劫にかかっており、三つの無量劫の時に最も速やかに仏道を完成させる者が優勝者となるのです。一万メートルの長距離走のように、賢者は百メートルの区間での前後を気にせず、体力に応じて長期的な計画を立て、優先的にゴールに到達することが根本であり、その他は重要ではありません。

人は遠慮なければ必ず近憂あり。目標が長遠であればあるほど、智慧は広大となり、胸襟は広博となり、器量は雄大となり、志は高遠となり、脚力は強靭となり、信心は満ち足りるものです。一時の速遅や勝敗に拘ってはなりません。

今は末法の時代であり、菩薩種性の人はそれほど多くなく、優れた法器も少ないため、速成による証果や明心を絶対に求めてはなりません。ここ数年私が見てきた現象から警鐘を覚えましたが、速成コースは人を害し、偽物を生み出し、仏教の正常な発展を阻害しています。

多くの人が真の修証の着手処を見出せないのは正常な現象であり、その修証の因縁がまだ成熟していないことを示しています。彼らが試行錯誤する中で次第に自らを成熟させ、善根福徳を増長し、禅定智慧を養い、菩薩の条件を整え、菩薩の心性と徳行を培うのです。最低限人としての徳性修養と人格を備えなければ、どうして菩薩として衆生を導けましょうか。衆生を泥沼に引き込みながら自覚せず、朱に交われば赤くなるように、衆生は知らず識らず悪習に染まりながら菩薩行と思い込む。この結果は恐ろしいものです。私が観察する限り、求悟者の人柄が極めて劣悪で、人としての基本もできず、善人になろうともしない。もし彼らが修証の方法を知り、最終結果を得て名ばかりの菩薩となれば、仏教はどうなるか。考えるだけで恐ろしくなります。

速やかに明心開悟を求める者ほど悟るべきではありません。このような焦燥心には不純な目的があり、菩薩心性が未熟で、無所求の心性が養われていないからです。こうした者が悟れば、かえって求める心が強まり、名利の心を制御できなくなります。修行は水到渠成、自然に任せるべきです。因縁が成熟した者は制御しようとしても制御できず、自然に悟り、自然に菩薩となるのです。

速成による証果や明心は福徳の蓄積が不足し、業障が未消滅で煩悩が未調伏の状態です。証果に近づけば業障が遮り、煩悩が現前し、菩提心が退失しやすくなります。因縁が成熟していない者を導いてはならず、未熟な果実を摘むようなことをすれば、人と仏教を害します。仏教で速成コースを開くなら、心性・道心・人間性・禅定の育成に留めるべきで、証果や明心の速成は絶対に避けねばなりません。心性も道心も人間性も禅定も速成できないのに、どうして証果や明心が速成できましょうか。

多くの人々が「修行の着手処が分からない」と訴えますが、今思えばそれが正常なのです。知らないのが当然で、着手処がないのが正常です。艱難辛苦を経て因縁が成熟すれば、自然に全てを理解する時が来るのです。

——生如法師の開示
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