意識による思考推論から導き出された結論は、実証されたものではなく、自らが証得したものでもなく、真実に使用可能な証拠による裏付けがないため、内心の疑惑は断ち切られておりません。時を経てこれと相反する事実に遭遇すれば、過去の結論を翻し覆すことになります。しかるに意根の深層に潜む疑惑は、意識に智慧がなければ発見することすら叶わず、従って意識の推論は疑惑を断つことができず、意根に信心を生じさせることもないため、実用性も受用も伴わないのです。
たとえ推論結果が完全に正しく、百パーセント正確であったとしても、それは非量に過ぎません。何故でしょうか。例えばあなたが「私があなたの物を盗んだに違いない」と推論し、実際に私が盗んだ事実があったとしても、あなたが目撃も現行犯逮捕もしていなければ、その推論は無意味です。裁判所はあなたや誰かの推論に基づいて私に罪を科し刑罰を下すことはありません。たとえ私自身が盗んだことを認めたとしても、それを証明する有力な証拠がなければ、裁判所は有罪判決を下せないのです。縁ある者の罪業を免除せんがため、自ら進んで代わりに罰を受けようとする者がいたとしても、説得力ある真実の証拠がなければ、たとえ裁判所で自ら罪を認め、他人とは無関係だと述べたとしても、一方的な供述だけで有罪とはならないのです。
仏法において禅定を得ていない者が、五蘊十八界の活動から第八識を推論し、第八識に何らかの作用があると想像したとしても、親証によって得られたものでなければ、このような推論には功徳の受用がなく、何ら変化をもたらしません。依然として我見は存続し、三縛結に縛られたまま、命終えて三悪道の果報を免れることはできないのです。第八識の推論が正しかったとしても、五、六割あるいは七、八割を想像できたとしても、大智慧は生じず、三昧の境地も得られず、功徳の受用もなく、依然として凡夫のままであり、このような想像や推論によって無明の煩悩が断じられることは永遠にないのです。
歴代の祖師方が用いた修行方法と歩まれた道は、絶対的に正しく現量に適い、その成果は真実可信なるもので、仏教に対し極めて大きな正面的影響と推進力を有しています。祖師方の開示は全て修証の真理を示し、実践による真知を体現しています。後世の衆生は福薄く障り深きが故、祖師方のように身心を捨てて修行に励むことができず、多くは便宜主義的な心理に囚われ、近道を求めようとします。修行とは自我を捨て、一切の代償を顧みずに進むものであり、何ら近道など存在しません。一歩でも道を省けば、それだけ功徳を減じ、身心の体験を乏しくし、自らを損なうことになります。これは実に自他を欺く行為です。もし近道があるならば、仏陀が衆生に教え導かなかったはずがありましょうか。衆生がこれほど苦しんでいるのに、仏陀が衆生の速やかな成仏を願わず、回り道を減らそうとされないことがありましょうか。
仏陀の教法に合致せず、仏陀の本懐に背き衆生の利益を損なう修行は、遅かれ早かれ必ず仏教から滅却され排除されます。ただ時節因縁の違いがあるのみなのです。
0
+1