人が縄を見る時、眼識の見る所は縄の色彩、即ち色塵であり、その他の縄の長短・太細・材質・紋様などは法処所摂色、五倶意識の見る法塵に属し、全て四大種子を含んでいます。眼識に落ちるのは性境、五倶意識に落ちるのは似帯質境です。両者和合して縄を分別し終え、世俗人が正常に導き出すべき結論を得て、初めて正常な世俗人と見做されます。その後縄に対する処置も常人通りの方法を取るべきです。
もし何らかの原因で心識が錯乱すれば、縄を見て蛇と錯覚する場合があります。眼識が縄を見る時、色彩という色塵は変わらなくとも、意識が縄の法塵を見る際、強いて蛇の形象を分別し、法塵を改変してしまいます。この改変された法塵を独影境と呼び、意識が単独で了別し、眼識は意識と共に了別しません。法塵の改変が大きければ大きいほど、意識の錯乱は深刻化し、縄の本質を帯びる部分が少なくなるほど事実から乖離し、心はますます狂乱します。逆に縄の本質を多く帯びるほど、事実に近づき、心も正常に近づきます。
縄を見る過程では、法塵と独影境が共存しつつも此消彼長します。完全に独影境となれば縄は完全に蛇と認識され、錯乱した人は恐怖で逃げ出します。一部の法塵が蛇の独影境に変わった場合、恐れつつも疑念を抱き、恐れながらも仔細に観察を重ね、縄と確認すれば独影境は完全に法塵に戻り、恐怖心が消えて正常に対処できます。逆に心理暗示が強く蛇と確信すれば、法塵は完全に独影境となり逃げ出すでしょう。
娑婆世界の凡夫は心識錯乱者が多く、程度の差はあれ完全に正常な者は稀です。貪瞋痴の煩悩業障が心神を乱し、認知錯誤が頻発し、事実を正しく判断できず、邪見から生じた独影境(根拠あるなしに関わらず)を妄執するからです。
心理素養が高く精神状態が正常な者ほど、心が淡泊で平静であり、反応も穏やかです。逆に心が乱れれば周囲への影響力(破壊力)が増大し、人事の混乱を招き団体の不穏を引き起こします。団体全体の精神錯乱は珍しくなく、今後更に増加するでしょう。主導者の錯乱が全体を薫染し、団体成員の心識を乱すためです。問題が累積すれば破綻は必然で、団体の崩壊も近くなります。
八地菩薩や初地菩薩でない限り、誰もが薫染を受け得ます。どのような薫染を受けるか、どう在るべきかは各人の選択権に属し、他者が奪うことはできません。故に選択は智慧と業力・福徳の問題です。正しい選択は智慧の現れであり、業障が軽く福徳ある証です。薫染の影響は一世に留まらず、多生あるいは永劫にわたり習性として現れます。環境や交わる人事物理の選択は極めて重要です。
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