無明とは、理解せず明らかにしないことを意味し、一切の法に対する無知を含みます。諸仏は一切の無明を断じ尽くし、出世間の一切法を明らかにされると同時に、世間の一切法をも明らかにされており、一つとして不明な法はありません。世俗法のいかなる法について仏陀に問うても、仏陀が不明で答えられないことはないのです。したがって世俗法に通達せず、人としての道を踏み外すことは即ち無明であり、その仏法もまた通達していないことになります。
諸仏及び諸地の大菩薩は、仏法に通達するだけでなく、同時に世俗法にも通達しておられます。世間で衆生と交わる際、衆生の心を明らかにし、世間の事柄を理解され、世俗に背かぬ選択をなさりながら広く衆生を救済され、衆生に流されることがありません。
仏法においてどの程度通達しているかは、相応して世間法においても同程度の通達が現れます。仏法と世間法は相互に補完し合う関係にあり、世間法を離れて仏法を成就するということはあり得ません。もし可能ならば仏法は世間法と無関係となりますが、実際には仏法は常に世間法と密接に関連し、決して切り離せないものです。仏法は世間法を効果的に導くことができます。もし仏法における智慧が高くとも世間法で行き詰まる者がいれば、その者は仏法に通達しておらず、真の仏教的智慧を持たず、いわゆる智慧は単なる空理空論に過ぎないことを示しています。
諸地の大菩薩から仏陀に至るまで、皆世間において宰相・大臣・君主、転輪聖王や諸天の天主となることが可能です。世間法に必ず通達しておられるからこそ、如何にして君主や転輪聖王、天主となれるのでしょうか。どうして衆生の俗事を管理統治できましょうか。どうして大衆を統率し服従させられるのでしょうか。
智慧は相通じるものであり、仏法の智慧が世間法の智慧を離れて単独で存在することは不可能です。仏法は世間法において実践されなければならず、世間法で実践が通じなければ仏法も通じていないことを示し、結局世間法に応用できない結果を招きます。仏法における証量は全て、世間法における身口意の行いを通じて現れなければなりません。身口意の行いが転換清浄されず、物事を円満に処理できないならば、その者の修行は未熟であり、定力・福徳力・智慧力が不足している証左です。よって世間法を離れて現れる仏法など存在しないのです。
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