衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2020年09月20日    日曜日     第1 回の開示 合計2631回の開示

仏法の智慧は世間法の智慧から離れられるでしょうか?

無明とは、すなわち理解せず、明らかにしないことを意味し、一切の法に対する無知を含みます。諸仏は一切の無明を断じ尽くし、出世間の一切法を明らかにされるとともに、世間の一切法をも明らかにされておられます。この世の法の中のいかなる一法について問うても、仏陀が明らかにされずに答えられないものはありません。ゆえに世俗法に通達せず、人としての道をわきまえず事を為せないのは無明であり、その者の仏法もまた通達していないのです。

諸仏や諸地の大菩薩は、仏法に通達するだけでなく、同時に世俗法にも通達しておられます。世間において衆生と交わる際、衆生の心を明らかにし、世間の事柄を理解され、なされる選択は世俗に背かずして広く衆生を度し、衆生に度されることがありません。

仏法においてどの程度通達しているかは、相応して世間法においてもその程度に通達するものです。仏法と世間法は相互に補い合う関係にあり、世間法を離れて仏法を成就するということはありません。もしそうであるならば、仏法は世間法と無関係ということになりますが、実際には仏法は常に世間法と切り離せず、密接に結びついています。仏法は世間法を効果的に導くことができます。もし仏法における智慧が高いとされる者が世間法でことごとく行き詰まるならば、その者は仏法に通達しておらず、真の仏法の智慧を持たない証左であり、いわゆる智慧は単に乾いた智慧に過ぎないのです。

諸地の大菩薩から仏陀に至るまで、皆世間において宰相や大臣、君主となり、あるいは転輪聖王や諸天の天主となることがおできになります。世間法に必ず通達しておられなければ、どうして君主や転輪聖王、天主となることができましょうか。どうして衆生の俗界の事務を管理統治し、どうして大衆を服従させ統率することができましょうか。

智慧は相通じるものであり、仏法の智慧が世間法の智慧を離れて単独に存在することはあり得ません。仏法は世間法において実践されなければならず、世間法で実践が通じないならば、仏法も通じていないことを示し、結局世間法に応用できないのです。仏法における証量は全て、世間法における身口意の行いを通じて現れなければなりません。身口意の行いが転換清浄されず、物事を処理して円満でないならば、その者の道行はまだ不十分であり、定力・福徳力・智慧力が足りないことを示します。ゆえに世間法を離れて顕現する仏法はないのです。

——生如法師の開示
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