問:ある見解によれば、俱生我執を断じたなら心に掛碍がなくなり、自分や親族の生死に対する畏怖も、自己の財産損失への恐れもなくなるという。これは確かに大解脱を得た状態ではあるが、このような境地は出家を志さない在家居士にとって適切だろうか。真にこの境地に至れば、多くの仕事ができなくなるように思われる。
答:まず申し上げるなら、俱生我執を断じ尽くした者は小乗では四果の大阿羅漢、大乗では八地の菩薩である。在家の者が四果の大阿羅漢に至ることは不可能で、在家で最高でも三果までである。三果に至るのは非常に容易ならざることで、三果の者は世俗においてほとんど世間法に興味を失い、必ず出家の道を求める。出家の機縁も極めて多く、家庭への執着は更に薄れる。出家しなければ大抵は縁に随って日を過ごすが、なお一部の執着が残っており、家庭生活や仕事にも執着心少なく縁に任せる。
大乗の四果阿羅漢は八地菩薩の果位にあり、通常は娑婆世界に来ることはない。仮にこの世界に来たとしても、家庭を養い世俗の生活を送るような、例えば仕事で生計を立てるなどということは決してあり得ない。彼らの福徳は計り知れず、どうして世俗の仕事で日を過ごすなどという卑俗なことがあろうか。衆生を済度する事業も全て縁に任せ、微塵の執着もない。どうしてわざわざ仕事をしたり家庭を養ったりする必要があろうか。実際、娑婆世界で初地の菩薩や三果の者を見出すことさえ極めて稀である。地上の菩薩は通常出家して衆生を済度し、菩薩が多数存在する場合を除き、わざわざ在家のまま衆生の手本となる必要はない。
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