夢を見ている時に夢の中の境界と夢の外の境界が結び付くならば、それは夢の中と外の一切法を意根が了別できることを示しており、かつ意根が先に夢の外の現実世界の状況を了別し、その状況に特に注目したため、夢の外の境界を夢境に変換し、意識にも参与させて了別させたのである。
人が眠って六識が滅しても、意根は依然として如来蔵に依って一切の法を了別でき、外部の録音機で説法する声も意根は聞き取ることができる。ただし、その分別と了別の智慧はそれほど強くなく、また説法に興味を持ったため、夢を見させて意識に夢境の中の説法を了別させた。しかし意根は夢外の境界をはっきりと了別できず、夢境は外界と関連性があるものの、なお若干の差異があり、多くの境界を意根が理解しきれていないことを示している。
これによって我々は知る、意根は覚醒時も睡眠時も、六塵境界中の一切法を全て知っている。肝心なのは、その了知の緻密さと正確さである。もし無始劫以来、意根が非常に慣れ親しんだ事柄ならば、了別は極めて迅速かつ正確である。あまり慣れていない事柄ならば、了別は遅く不正確で誤りが多く、作り出された夢境と現実には一定の差異が生じる。
私が仏法に触れたばかりの頃、ある昼間に家で供養に関するビデオを再生していた。チベット地方で集団で屠殺される牛に密教の僧侶たちが供養をする内容で、牛の数は非常に多く、前半の供養の場面は厳かで、後半の屠殺場面は凄惨を極め、血の川が流れ、牛たちは恐怖で悲痛な鳴き声を上げていた。ビデオは約30分から1時間程流れたが、当時私はまだ完全に仏教を信じていなかったため、再生中に眠りに落ちた。眠りながらもビデオの音声は聞こえており、やがて夢が現れた。見た夢は外部のビデオ内容と全く同じで、ビデオの進行に合わせて夢も展開した。途中で目覚めようとしたが覚醒できず、ビデオの内容を認識しつつ、夢中には血生臭い場面と牛の悲鳴、中には人間に跪く牛さえ描かれていた。
この夢は完全に意根によって導き出されたものである。眠って六識が機能しなくても、意根はこの事柄に強い関心を持ち、夢を生成した。外部の帯質境映像を独影境に変換し、意識にも了別させた。内外の境界を意根は同時に縁取ることができ、外部の映像内容も夢中の情景も認識していた。夢中では牛群への供養と屠殺の光景が生き生きと描写され、夢内外の境界はほぼ同一であった。心中では次々と変わる場面を認識しつつも、目覚めようとしても覚醒できなかった。
夢と外界の現実が関連しない場合も、夢境が意根の昼間の関心事や気掛かりな内容であることを示している。夜になると意根はその夢を生成する。昼に思うことが夜に夢となるとは、意根が昼夜を通じて注目しているため夢が現れるのである。夢境からある程度その人の修行の程度を判断できるため、一部の夢には一定の意義が存在する。
2
+1