論理的推論は比量であり、現量は平直で、そのまま即ちこれであり、再び比較分析する必要はない。「論」と「推」は共に比較分析に属し、「輯」もまた比較分析に属する。「輯」の字の本来の意味は車上に大小長短異なる箱を合理的に配置することで、故に車体と箱の適合度を分析比較する必要がある。
参究や参禅には言語文字がなく、疑情が最も濃厚な時に一つの縁に遇い、一つの境界に触れ、突然相応して頓悟する。腿を叩き「これだ」と悟り、そうして実母を見出す。もし依然として論理的推論を用いて「十年前に母は四十歳だったから、十年後は五十歳のはず。この人の年齢が母と似ているから、きっと母に違いない」と言えば、継母を実母と誤認する結果となる。臨終に後悔しても、どうしようもない。論理的推論は全て意識の思惟活動であり、意識単独で認めるのは継母に過ぎず、意根に随って認めるものが実母である。
意識は定があっても無くても論理的推論が可能で、その結果は一つの理を理解することである。一方、証果や明心には未到地定を具足する必要があり、そうしてこそ一門心思で参究でき、その結果は頓悟である。論理的推論には多大な禅定を必要とせず、心念を一時集中させれば足り、求められる定力は極めて低い。故に論理的推論の智慧は劣弱で、証果や明心を達成できない。禅定が深まるとき、意識の思惟活動は制限を受け正常に進行できず、疑情が極めて濃厚な時も意識の思惟活動は衰弱する。定力が優れるほど意識の作用は弱まり、意根の作用は強まり、現量の智慧はより深微となる。
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