衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年09月09日    水曜日     第3 回の開示 合計2606回の開示

臨命終時の感

『楞厳経』において、一切の世間における生死の相続は、生は順習に従い、死は変流に従うと説かれています。臨終の際、未だ暖触を捨てず、一生の善悪が同時に頓現し、死は逆に生は順となり、二つの習気が相交わります。ここで言う「臨命終時未だ暖触を捨てず」とは、「臨」が接近しつつも未だ過ぎ去っていない、すなわち未だ死に至っていない状態を指します。未だ死んでいない以上、少なくとも意識と意根の存在があります。仏が「未だ暖触を捨てず」と説かれるのは、暖触が残り、暖触の覚受があり、身識も存在することを意味します。この時、四大は未だ分解しておらず、あるいは分解が始まったばかりで、色身の一切の覚受が存在し、全てを感知でき、六識も未だ滅していません。この時の感覚はどのようなものでしょうか?仏は衆生の四大分解を生きた亀の甲羅を剥がすことに譬えられます。その苦痛と痛みはどれほどでしょうか。

この時、感知があり意識は滅しておらず、独頭意識も現前し得ます。独頭意識はこの時何をしているのでしょうか?専ら如来蔵から発せられる情報を受け取っています。如来蔵はこの世で造作した一切の善悪業行を、全て映画のように、かつ高速再生で、極めて速い速度で一瞬にして再生し終えます。如来蔵が導出する速度は極めて速く、意識にとっては急速な回想の如く、独頭意識が思考する余地もなく、ただ受け取るのみです。そして意識は直ちに理解し、自らがこれらの業行に従って何処へ向かうかを知りますが、既に傍らの人に伝えることはできません。臨終の際、意識は多少朦朧としていますが、如来蔵が強制的に与えた映像の内容に対し、依然として極めて明晰に了別し、明明白白であり、さらに自らがどの道で報いを受けるかを判断できます。誰かに因果応報の理を説かれる必要は全くありません。

臨終の意識と意根は後世の果報を受け入れざるを得ません。これが業力、一生の業行の力です。意識の反抗も意根の反抗も許されず、二者共に業力の安排と召喚に従順に従い、怨言はありません。中陰身において閻魔大王の審判を受けても、弁明や苦情を述べることはありません。何故なら事実が眼前に明らかに示されており、閻魔大王が調査取证する必要もないからです。事実を前にして、何を言う余地がありましょうか?粛々と閻魔大王の安排に従い、運命の安排に従います。運命は如何にして形成されるのか?命は我が造るもの、自ら造った業は当然自らが受けるべきであり、然らずんばどうしようもありません。誰が代わって受けることができましょうか?実の父母や子といえども代わって受けることはできず、各人の業は各人が受けるもので、誰も代わり得ないのです。

——生如法師の開示
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