ある法相への依止は意根によって決定されるものであり、決定された後に初めて五蘊六識を伴って依止を開始することができる。なぜ意根がこの決定を行うのか。それは意根がこの法相を見出し、この法相を認識し、この法相が堅固で信頼できるものであることを知り、依止後に利益があると理解したからこそ、依止を決定するのである。
したがって意根が我見を断たず、真心を明らかにして真実を証得していないならば、どうして如来蔵が真に依止すべき処であることを知ることができようか。どうして主導的に如来蔵への些細な依止を決定し、五蘊身の身口意行を造作することができようか。ただ意識が果を証し心を明らかにするだけでは、身心世界を調伏することはできず、煩悩はますます激しくなる。なぜなら「所得有り」という我執が増長し、我あるところ必ず煩悩が生じるからである。意根が同時に果を証し心を明らかにして初めて、身心は三昧の中に安住し、煩悩を調伏して次第に微細化させ、最終的に断除することが可能となるのである。
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