衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年09月04日    金曜日     第2 回の開示 合計2591回の開示

七識所見の色法、なぜ見えるものは真ならずと言われるのか?

色法は五大種子によって構成されるものであり、五大種子は如来蔵において形も色もないもので、七識にとっては空であり見ることができません。無数の五大種子が如来蔵から現れ、一定の法則と比率に従って所謂る色法を構成しますが、これらの色法は本質的には依然として空であり見えないべきものです。例えば空気は見えず、多くの空気が集まっても依然として見えません。また虚空は見えず、虚空が重なり集まっても依然として空で見えません。しかし七識心は空で見えない色法の上に、形と相貌ある色法を見出し、空を見ずに世俗相のみを見る。これが誤った見方なのです。

しかし如来蔵は形・相貌・相のある色法を見ず、世俗相を見ず、ただ空を見て色法の本体と相応します。故に如来蔵は大智慧を具え、顛倒せず、世俗界の煩悩を生じず、世俗法に染汚されません。見るものが異なるため、染汚されることがないのです。では七識が染汚を除去し煩悩を断尽しようとするなら、再び顛倒を正し、見るものを本来の状態に戻し、空相と真実相を見るべきです。そうすれば煩悩と無明は脱落し浄尽し、成仏しないことは不可能となります。

故に修行とは真実相を見る方法を求めることであり、意識の見ではなく、さらに意根の見、主として意根の見によるものです。意根がどれだけの真実相を、どの程度の真実相を見るかによって、煩悩と無明をどの程度断じるかが決まり、次第に自心仏と相応していきます。全ての真実相を見る時、完全徹底的に真実相を見る時に、無明が断尽し、完全に自心仏と相応すれば、それは当然仏となります。一部の人が説く「煩悩を断ぜずに成仏する」というのは偽りの仏であり、偽造を好む者が増えているのは、真の修行に力がないからです。

——生如法師の開示
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