衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年09月04日    金曜日     第1開示 合計2590開示

証道の後に雨相を見る

問:証道した後に雨の相を見て、はじめて心に自然に雨の相がなくなるのであり、雨が降っていることも分かるが、執着しない、ということですか?一方、証道以前は執着しやすく、別のことがあって心念をそらせるか、その雨を気にしない場合でない限り無理です。凡夫のもとのシステムはカメラのように、心念の中にフィルム(ネガ)を残すものなのです。

答:いわゆる着せず住せずというのは、雨の相および一切の相に直面したときの内心の功夫でなければなりません。相を避けることは、まさに相に着せず住せずできないことの証明にほかなりません。開悟以後の三賢位の菩薩は、雨の相を見ればやはり雨の相に着しますが、以前よりは軽微なだけです。初地からはじめて次第に雨の相に着せなくなり、八地の菩薩に至って、はじめて真に雨の相およびその他一切の相に着しなくなるのです。

したがって、開悟以後は真如へ転依しなければなりませんが、初地の菩薩になってはじめて真の転依が語れるのです。それは第六識・第七識がともに転識成智しているからであり、これが真如への転依の標誌だからです。八地の菩薩になってはじめて大部分を転依できますが、それでもまだ究竟ではありません。地前の菩薩は口で転依を叫んではいても、煩悩がある以上、転依成功はあり得ません。真如には煩悩がありませんが、第六識・第七識の心性は真如と似ているでしょうか?まったく似ていません。染汚が重いからです。スローガンを叫んでも、初地になってはじめて一部分が相応するのです。開悟していない人がスローガンを叫ぶのは、まったくの戯れ言にすぎません。自分の本来の面目すら見定められないのに、自分を高く掲げて転依を語るのです。よりどころを見つけていないとき、何によりどころできるというのでしょうか?しかも自分自身で自分を持ち上げることはできず、如来蔵と因果によって持ち上げられて、はじめて持ち上がるのです。

——生如法師の開示
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雑阿含経第十二巻十二因縁(一)

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七識が見る色法はなぜ所見が真でないと言うのか?

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