無量の生死輪廻の中で、何が私たちの身分を表すのでしょうか。凡夫から仏陀に至る修行の過程で、何が私たちの身分を表すのでしょうか。
例えば成仏する時、何が仏陀の身分を表すのでしょうか。八地・九地などの等覚菩薩となる時、何がこのような大菩薩の身分を表すのでしょうか。初地以上の菩薩となる時、何が初地以上の菩薩の身分を表すのでしょうか。明心開悟した後、何が明心菩薩の身分を表すのでしょうか。初果から四果を証得する時、何が初果・二果の賢人の身分を表すのでしょうか。何が三果・四果の聖人の身分を表すのでしょうか。辟支仏果を証得した後、何が辟支仏の身分を表すのでしょうか。凡夫の位において、何が地獄衆生の身分を表すのでしょうか。何が餓鬼衆生の身分を表すのでしょうか。何が畜生の身分を表すのでしょうか。何が阿修羅の身分を表すのでしょうか。何が様々な天界の天人の身分を表すのでしょうか。何が異なる人間の身分を表すのでしょうか。
衆生が毎回死を迎える時、六識は滅び、五蘊身は滅びます。ただ意根と第八識のみが存在し続け、共に来世へと赴き、来世の五蘊身を生じさせます。生々世々このようであるならば、ただ意根と第八識のみが衆生の身分を表すことができます。しかし全ての衆生の第八識は同じであり、全く同じ徳行で、微塵の差もありません。従って第八識は衆生の身分を表すことができず、もしそうであれば全ての衆生の身分は同一で、何の区別もなくなってしまいます。故に意根のみが衆生の身分を表すのです。
意根がどのような徳行であるかが、そのままどのような衆生であるかを決定します。仏の徳行であれば、それが仏世尊であり、仏陀を代表するのは意根が成就した報身仏で、衆生の果報身とは明らかに異なります。意根が等覚菩薩の徳行であれば、衆生は等覚菩薩となります。意根が八地菩薩の徳行であれば、衆生は八地菩薩となります。意根が初地菩薩の徳行であれば、識を智に転換し始めた段階で、衆生は初地菩薩となります。
意根が明心を証悟していても識を智に転換していなければ、衆生は三賢位の菩薩となります。意根がただ証果を得て明心していなければ、小乗の聖賢となります。意根が辟支仏果を証得し、辟支仏の徳行を備えていれば、衆生は辟支仏となります。
意根の心性が地獄衆生のように残忍で瞋恚に満ちていれば、衆生は地獄衆生となります。意根が非常に慳貪であれば、衆生は餓鬼となります。意根が非常に愚痴で教化不可能であれば、衆生は畜生となります。意根の徳行が非常に瞋恚好闘的だが福徳を備えていれば、衆生は阿修羅となります。意根の徳行に善悪が混在し、時々善悪が変動すれば、衆生は人間となります。意根の徳行が善に偏り悪を上回れば、衆生は欲界の天人となります。意根の徳行が善のみならず禅定を備えていれば、衆生は色界と無色界の天人となります。
人身は要であり、来世が上昇するか下降するかを決定します。もし仏法を修行するに当たり意根を修めず、意根の徳行を向上させ変化させなければ、臨終に六識が滅びる時、意根は現前の徳行によって来世の身分を決定し、如来蔵と共に意根の徳行に相応する胎中に赴くことになります。因果の法則はこのようであります。無数の人々の修行は蜻蛉が水を点すように表面的で、浅く触れるだけで止まり、意根の心に至らず、仏法を意根の心に実践しません。それ故に意根は無明を抱えたまま無明の胎蔵に投生し、無明の苦しむ衆生を生み出すのです。私は繰り返し意根について、意根の重要性を説いて参りましたが、それでも愚痴な衆生は意根を認めず、証果を意根に証させず、明心を意根に明らかにさせません。それ故来世には証果も明心もしていない意根が再び転生を続けることになりますが、その身分は決して証果や明心の身分ではなく、その時になって後悔しても既に手遅れなのです。
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