衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2020年08月29日    土曜日     第2 回の開示 合計2577回の開示

六識の造作の後、内外の相分はどちらが先に変化するのか

「煩悩即菩提」という説があります。煩悩とは、一方で貪欲・瞋恚・愚痴や殺人放火などの悪法を指し、他方で飲食排泄などの日常的な瑣事をも含みます。菩提とは如来蔵を指し、一切の法は如来蔵によって顕現され保持されるものであり、外相分も同様です。つまり外相分の生住異滅はすべて如来蔵によって実現され、内相分も当然ながら如来蔵によって顕現され保持されます。山河大地の一切の変化は第八識である如来蔵の所為であり、一切の法の生住異滅はすべて第八識如来蔵の働きによるものです。

六識が直接外相分を変えることは永久に不可能です。なぜなら六識には種子が存在せず、外相分と相応せず、さらに六識は後発的に生じる法であるため、必ず先に内相分が存在しなければ六識が生じることはありません。したがって六識が直接外相分を変えることは原理的に不可能です。如来蔵には四大種子、六大種子が存在するため、一切の法は如来蔵が決定します。これらの問題を探究する方向性は既に明らかです。六識が接触できるのは内相分のみで外相分には触れられないのに、なぜ六識の行為や造作が外相分の変化に関与できるのか。ここに重大な秘密が隠されています。

私が手で机から本を取り上げる時、手が触れるのは本の内相分であり、持ち上げるのは内相分の本です。しかし外相分の本は机から消え、他人は見ることも触れることもできなくなります。内相分と外相分は究極どのように関連しているのでしょうか。先に存在するのは内相分か、それとも外相分か。もちろん外相分が先です。変化するのは外相分が先か、内相分が先か。もちろん外相分が先に変化します。内相分はどこから来るのか。もちろん第八識如来蔵が外相分に基づいて顕現したものです。よって一切の法の変化は必ず外相分が先に変化し、変化した外相分が浮塵根を通じて浄色根に伝達され、内相分が形成されるのです。

しかし私の手は外相分の本に触れることができないのに、どうして外相分の本を先に変化させ、内相分の本の変化を引き起こせるのでしょうか。例えば六識が殺人の業を造作する時、六識が接触できるのは人の内相分だけで外相分には触れられないのに、どうして人の外相分を滅ぼせるのでしょう。しかも人の外相分が先に滅び壊れ、その後で内相分が滅びるのです。内相分は外相分に由来し、外相分に依って顕現されるため、必ず外相分が先に変化し、その後内相分が追随して変化します。ここに秘められた大いなる謎は縁ある者が細心に参究すべきもので、紙幅の都合でこれ以上述べることはできません。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

誰が衆生の存在を代表するのか

次の記事 次の記事

現量の内包

ページのトップへ戻る