衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年08月12日    水曜日     第1 回の開示 合計2531回の開示

意識は作主識ではありません

問:意識が主体となる法義について、『八識規矩頌』に「動身発語独り最も為す」とあること、また審慮思・決定思・動発思について、これらは全て意識が主体であることを説いているのでしょうか。

答:これらはいずれも意識が主体であるとは説いていません。「動身発語」の意味は、意識が身識と共に身体を動かして身業を造作し、意識が身識と共に言語音声を生起させて語業を造作することを指します。身業と口業においては意識の機能が最も大きく、意識が主体となり、身識は補助的でその機能は弱いのです。

審慮思・決定思・動発思は、意識の思心所の機能を説いたものです。意識にこれらの思心所の機能があるとはいえ、決定を下すことはできても、その決定が最終的に有効に作用するかどうかは、意根が受け入れるか否か、またその受け入れの程度にかかっています。例えるなら、子供がおもちゃを買おうと決めても、最終的に購入できるかどうかは親の同意次第です。金銭を管理している親に支出の決定権があるからです。また参謀が軍事演習を提案しても、最終的に実現するかは司令官の判断に委ねられ、参謀はあくまで建議する立場で、採否は指導者の判断によるのです。

意識は意根に奉仕する存在です。意根が意識の奉仕を必要としなければ、意識を生起させる決定を下さず、従って意識は現れず、主体性や決定権も問題になりません。五識にも思心所は存在し決定を下せますが、五識の決定は意識の決定よりもさらに弱く、その効力は全て意根の意向に左右されます。そして意根が主体となって決定を下したとしても、実際に事を成し得るかは第八識次第です。業種と福徳がなければ、第八識も無力です。故に意根が主体となって何事かを成就し法を生起させるにも前提条件があり、意根の思い通りに何事も成せるわけではないのです。

——生如法師の開示
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