同じ色でも、衆生によって見え方が異なることは、色を見ることが錯覚であることを示しています。水中に箸を挿すと、色界の天人は絶対に屈折した現象を見ることはありません。なぜなら、色界の天人は太陽の上に住み、自ら光明を有しているため陽光を必要とせず、色を見る際に陽光の影響を受けないからです。陽光による照明を必要としないため、当然箸が曲がって見える現象も生じません。欲界の天人も必ずしも屈折現象を見るわけではありません。欲界の天人は大脳の勝義根に依存せず、暗箱世界に生きておらず、またその福德が広大であるが故に、色を見る際には天眼を用います。天眼は肉眼よりもはるかに優れており、見る一切の法は天界以下の衆生とは根本的に異なります。さらに、月は四天王天に位置し、太陽は忉利天にあります。忉利天より上の四層の天には日月が存在せず、それらの天人も同様に日月の光明を必要とせず、天眼によって色を見るため、人間とは根本的に異なる見え方となります。
例えば同じ恒河の水を見ても、天人は瑠璃を見、人間は水を見、魚は宮殿と故郷を見、餓鬼は炎を見ます。これは福德の違い、業の違い、眼の違いによるものです。天人が人を見る場合、犬が人を見る場合、牛が人を見る場合、馬が人を見る場合、ゴキブリが人を見る場合、それぞれ見え方が異なり、感受や考え方も異なるため、反応も違ってきます。たとえ人間同士が見る場合でも、男性の視点から女性を見るのと女性の視点から女性を見るのでは見え方が異なり、子供の視点と老人の視点でも見え方に差があります。同じ人間でも、個人の福德や業障が異なるため、同じ事象に対しても見え方が違い、感受が異なり、考え方が異なり、反応が異なり、選択も異なります。では衆生の見るものに、いったいどのような基準や真実性がありましょうか。すべては虚妄で実体のないものなのです。
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